新義真言宗の寺院

1090 ~ 1091
近世の多摩市域には、高幡村高幡山金剛寺の末寺吉祥院・高蔵院・地蔵院・真明寺・東福寺・福性寺・宝泉院、府中妙光院の末寺観音寺、坂浜村光勝寺の末寺薬王寺がある。
【吉祥院】山号は唐沢山、寺号は明王寺。乞田村字窪谷戸にあり、朱印地一〇石。開山は尊慶と伝え、本尊は不動明王、境内に観音堂(馬頭観音菩薩)がある。乞田・貝取両村の鎮守八幡宮は当寺持ちで、天和二年(一六八二)・享保九年(一七二四)の建立や修復の遷宮の際には導師を務めたり(有山昭夫家伝来文書197・199)、本地仏の勧化金を取りまとめたりしている(同家伝来文書204)。

図6―45 乞田吉祥院

【高蔵院】山号は和中山、寺号は安養寺。上和田村にあり、朱印地五石。本尊は不動明王。中興開山慶秀は延宝七年(一六七九)に寂す。中和田村の十二所権現社は当院持ち。大塚村との境にある天満宮の再建や屋根葺き替えの際には遷宮師を務めていた(〈史〉石阪好文家伝来文書418)。嘉永七年(一八五四)住職宥山坊快盛は香衣一色着用を免許されている(高幡山金剛寺文書E―2―(2)―32)。
【地蔵院】山号は稲荷山。落合村字二反田にあった寺で、除地が五畝余あった。本尊は地蔵菩薩。元和年中(一六一五~一六二三)に川合豊後が建立し、宝永年中(一七〇四~一七一〇)には川合又兵衛が中興したと伝えられる(『風土記稿』)。寛政期以降はほぼ無住であった(高幡山金剛寺文書E―2―(3)―5、寺沢茂世家伝来文書336)。現在は廃寺。
【真明寺】山号は冠木山、院号は蓮華院。一ノ宮村にあり、朱印地は五石。本尊は十一面観音で、境内には十王堂がある。明治十三年(一八八〇)の「寺禄明細帳」(高幡山金剛寺文書E-1-11)に檀家三四戸。
【東福寺】落合村青木葉にあり、山号は青木山、また落合山とも称した。本尊は不動明王。朱印地十石は境内の鎮守白山社に充てられたもので、東福寺はその別当を務めていた。慶長の頃、堀合堰にあった修験蓮乗坊がこの地に移り、元和年中、円能によって草創されたと伝えられる。明治十三年の「寺禄明細帳」に檀家戸数二六戸(高幡山金剛寺文書 同右)。
【福性寺】福正寺・福生寺などと記載されている史料もあり、一定しない。乞田村字平戸にあった寺院で、除地二反三畝。本尊は不動明王。乞田八幡宮の遷宮で導師を務めたとも考えられる史料(有山昭夫家伝来文書369)があるが、宝暦ごろからしばしば無住が続き、人別届などの諸届は隣寺として吉祥院が行っていたようである。現在は廃寺。
【宝泉院】山号を慈眼山と称し、本尊は釈迦如来。所在は寺方村だが、『風土記稿』には関戸村小名原関戸とある(原関戸については第一章第二節を参照)。文久三年(一八六三)に、一ノ宮村の万平が地蔵尊一体を境内に建立寄進している(杉田卓三家伝来文書箱9―15・17)。
【観音寺】山号は慈眼山、関戸村の西にある。除地が五畝余。天保末年、建立講によって修理が加えられている(資二文化・寺社四六三ページ)。

図6-46 関戸観音寺前 六観音

【薬王寺】山号は医王山と称し、連光寺村馬引沢にあった寺院。本尊は薬師如来。