神社

1092 ~ 1095
多摩市域には、小野神社をはじめ、以下の二四社があった。
【小野神社】次項に別途記載した。
【秋葉社】落合村字二反田、稲荷社の近くにあった小祠。
【東権現社】貝取村の貝取八幡宮より北へ二〇〇メートルの山上にあり、村民が共同で維持する村の鎮守であった。例祭は貝取八幡宮と同日で、神体は女体八幡。
【愛宕社】上和田村南の愛宕山にあり、伊野十左衛門の建立と伝えている。除地三反で、寛永十年(一六三三)から同村高蔵院持ち。
【稲荷社】上和田村字塚原にあった小祠。
【稲荷社】落合村字二反田、秋葉社の近くにあった小社。
【稲荷社】原関戸村大屋敷にあり、天保十年(一八三九)同村杉田伊右衛門が城州稲荷本宮の許状を得て勧請したという(杉田卓三家伝来文書箱1―1・3)。
【春日社】連光寺村の中央に位置し、本村の鎮守。例祭は九月二十九日。文化十一年(一八一四)から数年掛け、本殿・拝殿など大掛かりな普請が行われている(〈史〉富澤千司家伝来文書155・156)。

図6-47 連光寺春日神社

【熊野社】関戸村の西端、貝取村との境にある神社。関戸村の鎮守で、熊慶寺持ち。
【金比羅社】関戸村の西、天守台の上にある小社。
【山王社】落合村字山王下にある百姓持ちの小社。もとは小山田村境の山上にあったという。
【山王社】乞田村字谷戸根の山上にあった小祠。除地として六〇〇坪余があった。
【十二所権現社】中和田村(『風土記稿』では上和田村)の北の山麓にあり、除地およそ一町歩。例祭は九月十二日で、同村高蔵院持ち。中世三田氏によって勧請された(『風土記稿』)とも、応永ごろ(一三九四~一四二七)金山・保田両者によって建立された(〈史〉石阪好文家伝来文書763)とも伝えられる。天保六年(一八三五)には社殿を再建(資二文化・寺社四九三ページ)、寛政・天保・安政の三度にわたり鳥居を修復している(〈史〉石阪好文家伝来文書321・376)。

図6-48 和田十二神社

【神明社】落合村小名中沢にあった村民持ちの小祠。
【諏訪社】連光寺村の西、乞田村との境の山上にあり、字馬引沢の鎮守。例祭は九月二十七日。宝永元年(一七〇四)幣殿を造立、これ以前同村薬王寺が新規に別当となっている(資二文化・寺社四八二ページ)。
【天神社(天満宮)】大塚村との境にある中和田村持ちの神社で、例年二月二十五日に祭礼が行われていた。文政ごろには残っていたという寛永九年(一六三二)の棟札(『風土記稿』)の所在は不明だが、延宝二年(一六七四)から天明三年(一七八三)にかけて六度にわたり社殿・宝殿の再建、屋根の葺替えが行われたことを示す棟札の写(資二社経24)が、当時の名主石阪家に残されている。
【白山社】落合村字青木葉、東福寺境内にあった村の鎮守社。社領として慶安元年七月以来朱印地一〇石、別当は東福寺で、例祭は八月十五日であった。『風土記稿』に記されている元和四年(一六一八)の棟札にある「大旦那小宮山八兵衛助為・別当円能法師」の文言および「元和四年十一月座鋪覚帳写」(資二社経70)と、東福寺に関する記述から、元和四年以前、中世以来当地にあった白山社に隣接して東福寺が移転、別当の任に当たるようになったのではなかろうか。寛政二年の東福寺の書上に、白山宮の社殿は五間四方と記載されている(寺沢茂世家伝来文書323)。
【八幡宮】貝取村の西、山の中腹にあった小社で、例祭は九月十五日。同村の村民持ち。享保年中(一七一六~一七三六)の棟札があった。
【八幡社】乞田村字宮田にある乞田・貝取二村の鎮守。祭礼は例年九月十五日。除地が二千四百坪あり、同村吉祥院持ちであった。天和二年(一六八二)再建の棟札控(有山昭夫家伝来文書197)には、上乞田・下乞田・貝取・宇竜(瓜生)の四か村とあり、それぞれ村民の名が記載され、遷宮の導師吉祥院や大工の名も見える。享保十一年(一七二六)神祇道宗家の吉田家から正一位の神階を授けられている(資二文化・寺社四八九ページ)。
【八幡社】寺方村山神社の東にあり、例祭は八月十五日。
【三島社】乞田村字谷戸根の山の根にあった小社。除地二二五坪。
【御岳社】落合村山王の東二〇〇メートル程のところにあった村民持ちの小祠。
【御岳社】貝取村字瓜生にあった村持ちの小社で、蔵王宮とも呼ばれていた。
【山神社】寺方村の寿徳寺境内にあった当村の鎮守。例年九月十七日に祭礼が行われていた。文政九年(一八二六)・天保九年(一八三八)寺方村・原関戸村・新田村三か村で本社の屋根葺替えと太鼓の張替えを行った資料が残されている(資二文化・寺社四八九ページ)。