小野神社と府中六所宮

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一ノ宮村の小野神社は、武蔵府中の六所宮(大国魂神社)に合祀された武蔵国内の主要な六神社のひとつで、しかもその第一位たる一ノ宮として、古代以来、府中六所宮とは深い関係にあったが、六所宮が国府の斎場としての役割を失っていた近世においても、他の五社とは異なり、距離的に近いこともあり、六所宮との関係は緊密であった。
 ここでは、こうした江戸時代における一ノ宮小野神社と、府中六所宮との関係を、主として六所宮の史料によって概観してみることとする。
 まず、江戸時代に府中六所宮では一ノ宮小野神社をどのようにとらえていたかを、年代を追って見ていきたい。
 六所宮の縁起のうち、神主猿渡盛道により寛永元年(一六二四)五月に著されたと伝えられる「武蔵国総社六所宮縁起并社伝」(『武蔵総社大国魂神社史料』第一輯、以下同)は、後世「古縁起」と呼ばれていたものであるが、それには次のようにある。
是ヨリ先、武蔵ノ国造兄多毛比命、祖神下春ノ大神ヲ祭リテ、小野ノ宮ト号ス、然ルニ大国魂ノ大神小野ノ県ニ鎮座スルヲ以テ本国ノ総社ト為ス、故ニ小野ノ神社ヲ以テ末社ト作ス、小野明神ハ総社ノ西南一里許ニ在リ、今一宮ト云フ

 この当時、府中六所宮では、「六所宮」がそもそもどういう性格の神社であるのかという正しい伝承を失っており、主神大国魂大神(ないしは大己貴尊)と、伊弉冉尊以下相殿の五神を合祀して「六所宮」であるとの見解をとっていたため、一宮小野神社の祭神は六所宮の祭神の中に入っていなかった。
 そして府中市住吉町の小野宮の小野神社とする若干紛らわしい記述もあるが、ここでは一宮の小野神社を総社六所宮の末社としてとらえている。また、内殿の神幣九ツのうち、六幣は六所の六神、一幣は一ノ宮、二幣は天神地祇の幣としている。
 神輿は当時も八基であったが、本社は大国魂尊、御霊宮は伊弉冉尊、四ツは相殿の残り四神、一ツは一ノ宮、一ツは八百万ノ神の神輿とし、一ノ宮は「六所」の内には入らないが、総社たる六所宮のいわば客分として合祀されている。
 次に、その一七六年後、神主猿渡盛房によって寛政十二年(一八〇〇)八月に著された「六所宮伝記」には、大変興味深い記述が見られる。盛房は、主神大己貴尊とその祖素戔嗚尊、これに他の四神を合祀した神社を大麻止乃知天神として、六神を合祀したため六所宮とも称したとする。
 小野神社については、府中市の小野宮村小野大明神が式内の小野神社であり、瀬織津比咩大神を祭神とする「同郷の旧祠」である。また一ノ宮村の一ノ宮大明神は、本国の祖神天下春命を祭神とする別の神社とする。
 そして一ノ宮の一ノ宮大明神が、小野宮の小野大明神に遷坐し、新たに稲倉魂大神を配し小野三神となったという。さらに府中に国府が開設されるにともない、この三神を合祀した小野宮の小野神社を六所宮に遷坐して、国社の礼をもって祀ることとなり、これが当時六所宮の東殿に祀る「客来三所」である。このため、府中六所宮というのは、大麻止乃知天神と小野神社(三神)の二社合祀の祠である。
 このように説いている。盛房によれば、一ノ宮大明神の旧跡は一ノ宮村にあり、小野神社の旧跡は府中の小野宮にあるが、ともに旧跡であり、当時は六所宮に祀られているという理解である。
 この猿渡盛房の説は、式外の府中六所宮を何とかして式内社にして社格を上げたいという強い願望から、式内の大麻止乃知ノ天神社(稲城市大丸)と小野神社の二社を六所宮に取込もうとしたものであろう。こうした見解は、後世に謬見として否定されることになるものの、当時においては正式な六所宮の縁起として各方面に紹介されており、寛政十二年三月、盛房が官位を願って上京した折にも、同様な内容の書付を吉田家を通じて朝廷に提出している(大国魂神社文書)。
 盛房の長子猿渡盛章の著した文政十一年(一八二八)七月の「新撰総社伝記」及び「新撰総社伝記考証」になると、内容はまた一変する。
 盛章は、小山田与清門下の国学者として神典・古典に造形が深く、自社の由来等についても広く諸文献を渉猟して研究していたが、文化十四年(一八一七)十月僧長弁の「私案抄」を得て、六所宮の一ノ宮が小野神社、二ノ宮が小川神社であることを知った。さらに翌文政元年十一月、安居院の「神道集」を読み、一ノ宮から六ノ宮までの神号を知るところとなり、ここに長い間不詳であった府中六所宮の六所宮たる正しい所以を理解するに至ったのである。
 この盛章に至ってはじめて一ノ宮小野神社は六所のうちの一ノ宮であるとの位置付けがなされたが、同社の祭神については、天下春命と云う神名が「旧事紀」のみに見え、記紀に見えないこと、またその「旧事紀」によると、天下春命は秩父国造の祖であり、武蔵国造兄多毛比ノ命がその祖神として祀ったという小野神社社伝の記述には疑問を呈しているが、「今誤りとはいひ定めがたし」と、一概に退けることは避けている。
 さて、式内の小野神社はもと府中市住吉町の小野宮にあり、後に一ノ宮村へ遷ったという説は、文献では府中出身の江戸中期の宗教家依田貞鎮が延享四年(一七四七)に著した「府中故事」あたりが早いようで、以後、府中では地元贔屓ということも手伝い、依田貞鎮の説が広く信じられていたようである。猿渡盛章もこの説について、「さもあらむか、またもとより行宮遙宮の類ひなりしもはかりがたし」と述べ、その可能性は認めながらも、どちらとも断定はしていない。
 盛章の嗣子猿渡容盛は慶応四年(一八六八)五月に「武蔵総社誌」を著したが、彼の説は全てにわたりほぼ父盛章と同様であり、それをより詳細に論証したものである。
 小野神社の祭神については、やはり天下春命は納得し難いとし、小野氏の祖神で考昭天皇の皇子天足彦国押人命ではないかという仮説を出している。またその旧地については、依田貞鎮の説に同調し、そのことは小野宮社地に残る枯死した槻の大株からも窺え、また地元の里老の話もそれを裏付けているとしているが、『吾妻鑑』治承五年(一一八一)四月の記事から判断して、かなり早い時期に一ノ宮へ遷ったものと推定している。
 以上、主として府中六所宮の縁起・社殿から、六所宮では一ノ宮小野神社をどういう神社としてとらえていたかを見てきたが、六所宮では江戸後期の神主猿渡盛章とその子容盛によってその見解はかたまり、以後、明治から現代に至るまで、ほぼその線が踏襲されてきたのである。
 なお、武蔵国における「一ノ宮」は、この多摩市の小野神社か、あるいは埼玉県大宮市の氷川神社かという問題については、猿渡容盛は文久三年(一八六三)七月、吉田家の家来大門金吾よりの問合せについて、次のように回答している(大国魂神社文書)。
武蔵国一ノ宮ハ足立郡氷川神社なる事疑無御座候、
同多摩郡一宮村一宮大明神、同郡二宮村二宮大明神等ハ、国府の六所宮に鎮座の次第に依て、一宮二宮等の称号有之泰に御座候、氷川神社ハ曾て関係無之事ニ御座候

 つまり、氷川神社は武蔵国の一ノ宮であり、小野神社は国府の六所宮の一ノ宮であるとするもので、古代における事実如何は別として、江戸末期の六所宮の見解は右の通りであった。