六所宮例大祭への勤仕

1100 ~ 1103
一ノ宮小野神社の神職が、いつ頃から府中六所宮の五月五日の大祭に勤仕するようになったのかは詳らかではない。府中六所宮が国府の総社であることを考えると、多分、古代にまで遡りうるものと推察される。しかし、たとえ古代以来の伝統であったとしても、国府の衰亡、武家政権の誕生等の社会情勢の転変と、それにともなう六所宮自身の性格や、その勢力の変化により、この間、大祭勤仕の仕方や、その役割に大きな差異があるのは勿論であろう。ここでは江戸後期において、小野神社の新田・太田の両神職が六所宮の例大祭で、どのような役割を果たしていたのかを、慶応四年(一八六八)五月の「武蔵総社誌」及び元治元年(一八六四)四月の「武蔵総社神事式」・「武蔵総社年中行事」(ともに『武蔵総社大国魂神社史料』)により見ていきたい。
 府中六所宮の例大祭は、さまざまな付随した神事はあるものの、五月五日の夜、八基の神輿が神社から御旅所へ神幸し、翌早朝神社へ帰還する渡御が主であり、この渡御が灯火を消した暗闇の中で行われたため、一般には〝くらやみ祭り〟として有名である。
 一ノ宮大明神の祠官二名(「武蔵総社神事式」及び「同年中行事」では神主新田氏・祢宜太田氏となっている)が府中につくのは五月五日の未ノ刻(午後二時頃)で、神主の新田氏は社家の中善寺の家に、祢宜の太田氏は神人で一ノ宮神輿守の高橋兵右衛門の家に入る。そして、両人はまもなく神主猿渡氏の家に行き挨拶し、勧盃の儀が行われる。
 六所宮の大祭では、神輿の渡御に先立ち、坪ノ宮奉幣使発遣の儀が行われる。これは使者(社家中善寺氏)が武蔵国造兄多毛比命を祀る同社に参向し、そこであらかじめ届けられている奉幣の唐櫃に向って祝詞を読み、つぎにその幣束を奉じて御旅所へ赴くというもので、のちにその幣束でもって、到着した神輿に奉幣が行われるのである。つまり、このことは御旅所での奉幣は、神職がその昔、この祭祀を主宰した武蔵国造の代理としての立場で行うことを意味しており、その意味で、坪ノ宮の神事は大変重要なものである。
 この坪ノ宮から御旅所へ持っていかれる幣束の入った唐櫃は、申ノ刻(午後四時頃)神主家から一旦、神人高橋家へ運ばれ、そこで同家に滞在している一ノ宮の祢宜太田氏によって清祓が行われる。それから高橋氏に陪従されて坪ノ宮へと送られ、使者を待つのであった。
 さて、同夜酉ノ刻(午後六時頃)、八基の神輿は神殿階下に集められ、戌ノ上刻(午後七時半頃)六所宮の神主・祢宜・社家とともに一ノ宮の神主・祢宜も参殿し、亥ノ刻(午後十時頃)動座が行われ、神輿の出御となる。このとき一ノ宮の新田・太田両氏は輿守役の高橋ともども一ノ宮神輿に供奉する。
 午前零時頃、神輿が御旅所に到着すると、御饌が献備されるが、六所の神輿には各二前、御霊宮の神輿には八前が備えられることになっている。そして、六所の神輿への御饌の献備はすべて一ノ宮の神主が行ったのである。次に奉幣があり、終って祝詞奏上であるが、このときも他に先立って、一ノ宮の神主・祢宜が、一ノ宮神輿の前で祝詞を読むのが慣例であった。
 諸神事の後、早朝寅ノ上刻(午前三時半頃)神輿は御旅所を発ち、神社に還御、社家ならびに一ノ宮神職等は階下庭上で神輿に拝礼、寅ノ中刻(午前四時頃)祝詞奏上後、神輿は撤せられ、社家ならびに一宮の神職は退出する。
 そして一ノ宮の神主新田氏は中善寺家、祢宜太田氏は高橋家をそれぞれ辞し、御旅所で一ノ宮神輿に献じた幣束を奉じて帰社するのであるが、このとき高橋家では御供米二俵を御腰懸俵(御輿懸俵)として献上することになっていた。
 このように、一ノ宮神輿の供奉と奉幣のみならず、坪ノ宮の神事、御旅所での御饌の献備等、一ノ宮の両神職は、この六所宮の例大祭において大変重要な役割を果たしていたのであり、六所宮にとって一ノ宮小野神社が大きな存在であったことを窺わせる。
 なお、腰懸俵について、大国魂神社文書の中に古い資料があるので、次に紹介する。
        一札之事
一、武苻六所宮、毎年五月五日御祭礼ニ付、御幣為腰掛米弐俵但京升三斗五升入毎年五月五日ニ無懈怠其方へ相渡シ申定ニ御座候、為其証文如此ニ候、以上

               武州府中
      元禄八年亥二月日  高橋兵右衛門
            一ノ宮神主
               太田権之丞殿
                    参
        一札之事
一、武州六所宮、毎年五月五日御祭礼ニ付、御幣為腰掛米弐俵但京升三斗五升入毎年五月五日ニ請取申候、右之米之内五升者五日之晩之入用ニ其方江相渡シ申定ニ御座候、為其証文如此、以上

              武州一ノ宮神主
                太田権之丞殿
              高橋兵右衛門殿
                    参
 高橋兵右衛門は六所宮の神人で、一ノ宮御輿守役であり一ノ宮神主宿を勤めたことは前述のとおりである。明治三年(一八七〇)十二月の「御条目註文別記・神職家筋世代之部」(大国魂神社文書)によると、番場宿の人で本姓は日奉氏、「武蔵七党ノ内西党ノ一類ト申伝ヘ候ヘトモ、家譜紛失祖先ノ由来相分リ兼申候、往古ハ府中ノ分倍荘高倉ニ住居致シ、代々国造家ニ奉仕致シ候趣ニテ、今猶当社大祭ノ節坪社(国造ノ祖兄多毛比命ノ霊社ニ御座候)ヨリ本社大神ヘ神献ノ奉幣守護相勤来候」とあり、坪ノ宮にゆかりのある旧家であった。代々兵右衛門を名乗ったが、幕末維新期には覚右衛門であった。
 なお、「武蔵総社社誌」によると、高橋兵右衛門は府中本町の農民とあり、坪ノ宮の位置からしても本町の人と考えた方が自然である。しかし、延宝六年(一六七八)の府中三町検地帳を見ても、「番場兵右衛門」とあり、本町には兵右衛門の名は見えない。
 この腰懸俵の名称の由来とその性格については不詳で、猿渡容盛の「武蔵総社誌」にも「是レを御腰懸俵と称す、或は御輿懸俵ともいふ、何れか是なるを知らず」とあり、当時すでによくわからなくなっていたようである。しかし、紹介した元禄八年(一六九五)の文書に「御幣為腰掛米」とあり、坪ノ宮の奉幣守護を勤めていた高橋氏が差出したものであることを考えると、幣束が神主邸から直接坪ノ宮へ行かないで、一旦高橋家へ運ばれ、そこで一ノ宮祢宜太田氏の清祓をうけた後、坪ノ宮へ送られる。その御幣の高橋家への一時的な「腰掛け」の祭の一ノ宮神主(ないしは小野神社)への御札の御供米ではないだろうか。二俵というのは、新田・太田両氏へ各一俵ということであろう。