一ノ宮村小野神社の氏子中が新たに神輿をつくり、府中六所宮大祭に参加したいと申し入れたのは、文政三年(一八二〇)五月の大祭直前のことであった。次の史料はそのときの六所宮の回答についての一ノ宮側の請書である(大国魂神社文書)。
差出申一札之事
一、此度一之宮村一宮大明神氏子一統心願ニ而神輿新規出来候ニ付、大祭之節旅宿迄、右神輿昇候而往来仕度旨相願候所、旧例之義も年来相過候義ニ付不慥、殊ニ御神事前余日も無之、先例御糺茂相成兼候段被仰聞、御尤千万奉存候、乍併氏子共心願ニ而丹精仕、漸出来仕候儀ニ御座候間、旅宿迄之所御許容被下候様達而御願申候処、差掛リ候儀ニ而先例も相分リ兼候得者永例ニ者難相成候得共、氏子共丹精仕候所、御推察之上御承知被下、旅宿迄神輿昇来候儀御許容被下、尤御神事後、先例御糺被成候上、万一故障之儀有之候ハヽ只今迄之通リ早速相止め可申段被仰聞承知仕候、御糺之上故障之儀有之候ハヽ早速相止メ、先規之通リ相勤可申候、其節違背仕間敷候、仍之一札差出置候処、仍而如件
一ノ宮村一宮大明神
文政三庚辰五月三日 神主 新田主水
祢宜 太田周防
一ノ宮村役人磯右衛門
府中六所宮御神主
猿渡近江殿
そもそも古代においては、年に一度、国府祭・国司祭等と称し、国内の主要神社の神輿が国府の総社あるいは六所宮に集まり、国司の主宰で一国の祭礼を行うことが一般であったと考えられ、相模の六所神社(神奈川県大磯町)や安房の鶴谷八幡神社(千葉県館山市)の祭礼では、現在もそうした形態を残している。したがって、この一ノ宮氏子の神輿新調と六所宮大祭への参加申し入れは、あるいはそうした古い何らかの伝承がまだ当時の一ノ宮村に残っていたのかもしれない。あるいはそうした古代の国府祭にまでさかのぼらずとも、長い間、六所宮には「客来三所」として、一ノ宮小野神社の祭神が客分として、特別に合祀されていたこともあり、両神社の深い結びつきや親近感が然らしめたものかもしれない。
しかし、六所宮では当時、過去において、一ノ宮の神輿が大祭に参加したというような伝承はなかったようで、その申し入れは「新規」以外の何物でもなかった。また一ノ宮側でも、そうした事情は承知していたようで、六所宮の神事として神輿の神幸に加わるのではく、文面によれば、あくまで府中の旅宿迄神輿をかついで往来したいという申し入れとなっている。六所宮では本年はとりあえず許可するが、祭礼後に先例等を調べた上、もし故障があれば、次年度からは中止もありうるとの返答をしているが、その後、この件についての史料はなく、詳細は不詳である。しかし以後、明治・大正・昭和と引き続いて盛大な渡御が行われ、六所宮大祭の重要な一要素になっていったのは周知のとおりである。なお、この一札に添えられた新田・太田両氏の書状によると、この時、神輿は「再建」された旨が記されており、一ノ宮にはそれ以前から神輿は存在していたことが知られる。
この一ノ宮神輿の渡御は、明治以後、府中側では本町と番場の二町が接待等の担当となっていた。五月五日の当日は、この両町の所役の者が一ノ宮まで出迎えに赴き、正午に小野神社神前での祝詞奏上・御霊遷し等の神事があり、午後一時、三発の煙火を合図に発御、高張提灯・金棒・神官・総代・所役の先導で進み、一ノ宮渡しで多摩川を渡り、小野宮小野神社の南を通って旧鎌倉街道に入り、分梅の朝倉染物店で休息、再び煙火を合図に出発、分梅を通り鎌倉街道を東進、府中本町に入るが、ここで神輿を揉みに揉んで、夕方四時頃、そこの御仮舎に到着、まもなく大国魂神社の神職による玉串奉奠・祝詞奏上等が行われる。そして日も暮れた頃、神輿はそこから本町通り府中街道を経て甲州街道に出て、番場の御仮舎へと渡御するのであった。
府中本町の御仮舎は、時代により変遷はあったようであるが、明治二十年頃より終戦頃までは、本町一丁目の谷本屋という屋号の夏目家であった(夏目与志男「一之宮小野神社の神輿渡御について」『府中市談』一八)。また番場の御仮舎も、小林半蔵家・比留間平七家・中島徳次郎家・同鉄五郎家・矢島徳太郎家・同豊司家というように、かなり頻繁に変わったようである(中村義男「闇夜祭と番場町の行事」)。
大国魂神社の大祭を盛り上げてきたこの一ノ宮の神輿の渡御も、昭和三十四年(一九五九)を最後に、ついに長い歴史を閉じた。もし文政三年(一八二〇)より連綿と続いたとすれば、実に百四十年にわたる伝統行事であった。そしてこの年をもって大国魂神社の例大祭も、夜の祭りから昼の祭りへと変貌し、いわゆる府中の〝くらやみ祭り〟は幕を閉じたのである。