江戸時代の神社は、一部の特定の神社を除き、その大半は京都の吉田家の支配下であった。京都吉田神社の祠官で、唯一神道流の宗家である吉田家は、室町時代に吉田兼倶が出て、神祇伯白川家に対抗して神祇管領長上を自称、朝廷・幕府に取り入れ神道界に勢力を伸張し、地方の神社に神階を授与し、神職に位階斎服の免許を授ける権限を獲得した。吉田家のこうした権限は、江戸幕府によっても寛文五年(一六六五)七月の「諸社祢宜神主法度」に見られるように認められ、全国の神社の大半をその支配下に置いたのである。
吉田家の支配は、寺院における本末関係ほど確固たるものではないものの、その地方の主な神社を触頭として、その下に、いくつかの小神社を触下として付属させ、万事触頭を通じて支配を行ったようである。
勿論、地方によって、その事情は一様ではなかったようであるが、この一ノ宮小野神社についてみると、触頭は府中の六所宮であり、小野神社の神職の装束着用、あるいは神道行法伝授の裁許状の授与等は、すべて六所宮を通じて吉田家へ申請され、吉田家の令達は六所宮を通じて、小野神社に伝えられたのである。その具体的な様子を大国魂神社文書によって見ると、次のようなものである。
たとえば、文政八年(一八二五)四月、神祇道取締りのため、本所吉田家の役人が出役して六所宮に達しの趣を伝えた際に、神主の猿渡近江は次のような請書を出している。
今般、神祇道為取締御出役被成、則御達之趣、拙者支配之社家社人并一ノ宮村一ノ宮大明神神主新田主水・太田周防江巨細申聞候、猶従前同御達之趣弥堅相守、国風興隆勧学之儀、精々添心可仕候、右御請如此御座候、以上
文政八年酉四月 猿渡近江印
御本所様
御役人衆中
猿渡近江は、このように六所宮の社家や社人と同様に、一ノ宮小野神社の新田・太田両神主を自らの支配下の神職として取り扱っている。
このとき、一ノ宮の両神主は、吉田家から神職の継目許状を受けていないことを指摘されたようで、両人は六所宮の祢宜・社家と連名で、十一月迄には必ず出願する旨の請書を出している。また二人は「中臣祓本義」二冊を相伝したものの、その代金一〇〇疋の持ち合わせがなく、猿渡近江よりそれぞれ借用している。
次に、年不詳であるが、三月四日、吉田家の嫡男元服にあたり、六所宮神主から金二〇〇疋、その社中と一ノ宮の両神主から各金一〇〇疋が、御祝儀として上納されたことに対する御礼の奉書が、吉田家の家老中から猿渡近江宛に出されている。さらに五月には、一ノ宮大明神神主新田主水美濃が、裁許状(継目許状と思われる)の出願のため上京するに際して、猿渡近江が添簡を持たせたようで、やはり吉田家家老から書状の趣を了解した旨の奉書が猿渡氏宛に出されている。
このように小野神社神職に対する吉田家の支配は、すべて触頭である六所宮の神主猿渡家を通じて行われたのである。ただ、この吉田家による支配は、寛文五年七月の「諸社祢宜神主法度」や、享保二年(一七一七)四月の「本所下知書」、さらには天明二年(一七八二)十月の神主法度の再触れにもかかわらず、実際にはなかなか浸透しなかったようで、府中六所宮でも神主以外の神職が本所の許状を受けるようになったのは、享和元年廻村してきた本所役人より許状不所持の非を指摘されたのが契機であった。一ノ宮小野神社の新田・太田の両神主と社家の森田氏等が実際に、何時ごろから吉田家の許状を受けたのかは不詳であるが、恐らく享和元年以降のことではなかろうか。