朱印地と朱印改

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寺院や神社の所持する土地には、朱印地や除地あるいは村高の内にあって年貢のかけられるものもあった。朱印地とは、江戸時代、寺院や神社が将軍の朱印状を受けて領主として知行した地域、および地主として所持した土地を指し、また年貢諸役を免除された土地を除地といった。徳川家康による寺社領の寄進状は弘治二年(一五五六)に始まるが、関東の寺院・神社に宛てた朱印状は、関東入国翌年の天正十九年(一五九一)十一月の寄進がほとんどであった。二代将軍秀忠の朱印状は、家康死後の元和三年(一六一七)に集中的に発給され、三代家光は秀忠の死の翌年寛永十年(一六三三)から領地の安堵を開始し、さらに慶安元年(一六四八)二月から同二年十月までの間に、新知として朱印状三一五〇通以上を発給している。
 多摩市域内の寺院・神社のうち、朱印地を与えられていた寺院は、吉祥院一〇石、寿徳寺七石、大福寺(境内地蔵堂)五石五斗、高蔵院・真明寺各五石で、神社は一ノ宮一五石、落合の白山社(別当東福寺)が一〇石で、これら五院・二社へはじめて寄進された朱印地は、いずれも慶安元年に新たに発給された朱印状によるものである。新朱印状の発給は、寺院・神社の由緒や黒印地・除地などの由緒を理由に、村方や代官・旗本あるいは本寺を通じて寺社奉行から請願し、それが将軍によって承認されるという形式を経て、はじめて朱印状を渡されることになるのである。
 家康・秀忠と、家光の慶安期の朱印状は、こうした新たな交付による寄進であったが、ほかはほとんど代々将軍の継ぎ目の安堵状であった。在地の寺院・神社が将軍の代替わりに、安堵の朱印状をどのようにして受け取ったか、享保二年(一七一七)八代将軍吉宗の時の例を見ることにしよう。
 まず田舎(地方の意)本寺の場合を、高尾山薬王院(八王子市)に所蔵される「御朱印御書替之砌万控帳」(高尾山薬王院文書218)によって見ることにする。薬王院は新義真言宗の寺院で、京都醍醐無量寿院の末寺であるが、薬王院も八王子市や相模原市・町田市ほか周辺村落に一七か寺(寛政期)の末寺・門徒をもつ本寺でもあった。
 吉宗が将軍職に就いた享保元年八月から四か月後の十二月、寺社奉行から代官・領主へ御朱印改の触が出され、別に各宗派の江戸役所を通じて、諸寺院へ「朱印状所持の寺社は、朱印状に写しを添え、来正月から三月までの間に出府、寺社奉行役所へ届けるように」という触書が出された。薬王院へは真義真言宗江戸触頭四か寺連印の廻状が、同月二十七日に府中妙光院から届き、同日大幡宝生寺(八王子市)へ廻した。妙光院・室生寺は薬王院や金剛寺と同様にともに末寺を持つ田舎本寺であった。江戸触頭からの廻状には、「門末、又門末の朱印地のある寺院へは、その本寺から触れる」よう記されており、触書には書式と使用する用紙も指定されている。薬王院の場合、朱印状の写を提出する相手は、寺社奉行所と触頭(江戸役所)および代官の三か所で、作成した朱印状の写は三通であった。翌享保二年二月六日に出府し、月番触頭真福寺に添簡を貰って、同月十三日寺社奉行石川近江守の役所へ真福寺の添書と目録を差し出し、朱印改のため出府したことを届ける。後日に定められた書類の提出日は、何度も日延べが繰り返され、翌三月二十四日に至ってようやく朱印状の写しを差し出し、帰寺の許可を得る。安堵の朱印状はこの場では渡されず、薬王院の場合は後日代官から渡されたようである。その間、月番以外の役寺へ挨拶し、すべての手続きが終わるとまた御礼に参上するなどして、ようやく四月六日に寺へ帰りついている。この間丸二か月を費やし、祝儀や礼金なども相当の高額に上っている。
 つぎに末寺の場合を、新義真言宗高幡山金剛寺(日野市)末の一ノ宮村真明寺にみると、享保二年の二月に入って本寺金剛寺から触が達せられ、領主(旗本)中山勘解由の添状をつけて、代々の朱印状写とともに寺社奉行石川近江守へ差し出したのが翌三月十六日であった。朱印状は、二年以上経った後の翌々四年八月十九日に、中山勘解由が老中井上河内守から受け取り、ただちに一ノ宮へ知らせているが、渡された状況を具体的に示す記載はない(高幡山金剛寺文書310)。

図6―49 朱印状頂戴につき中山勘解由書状

 では、神社の場合はどのようなプロセスを経るのだろうか。一ノ宮村の一ノ宮大明神社にみると、享保二年三月触書によって代々の朱印状を写し、領主中山勘解由の添状をつけて、一ノ宮社の神官新田主水・太田左門両名が、掛かりの寺社奉行石川近江守へ差し出したのが同月十六日のことであった。それからほぼ二年半の後、享保四年八月十九日、中山勘解由が老中井上河内守へ呼び出されて直接朱印状を受け取り、即日一ノ宮へ出府を促し、中山氏の屋敷で新田・太田両名へ朱印状を渡している(資二社経15)。
 真明寺と一ノ宮社との手続き修了から朱印状を受け取るまでのプロセスは年月まで同一である。おそらく真明寺の場合も、朱印状を知行主中山勘解由の屋敷で受け取ったであろう。朱印状掛かりの寺社奉行から出された朱印改の触書が、寺院の場合は①寺社奉行―代官・領主―知行地村役人―寺院とするルートと②寺社奉行―江戸触頭―本寺―末寺の二ルートが併存し、①は触の伝達と朱印状の授受、②は朱印状改のための具体的な指示と宗派内の統轄を主として担っていたと考えられる。吉田・白川両家に属さず、その江戸役所もなかったこの時期の中小神社の場合には、寺社奉行―代官・領主―知行地村役人―知行地内神社というルートは、単純であったが、そのために生じる不徹底・不統一な状況が吉宗を嘆かせた一因ともなったのであろう。なお、この時期から一三〇年余り経た十三代将軍家定の嘉永七年(一八五四)から安政四年(一八五七)に行われた朱印状改について、新義真言宗金色山大悲願寺の場合の詳細な分析がある(清水浩「朱印状の授受をめぐる記録について」『東京都西多摩郡五日市町大悲願寺所蔵文化財調査報告(上)古文書編』)ので参照されたい。