もっとも寺院が、堂社の管理維持のために何も主体的に行わなかったわけではない。祠堂銭と称し、葬祭料・服忌料など死者の冥福を祈るために寄進された金銭を、祠堂の修復を名目に保管していた。文政七年(一八二四)二月、当時無住であった一ノ宮村真明寺に、当時の祠堂金の基本的な運用のあり方を示す史料がある(高尾山薬王院文書316)。台風で傷んだ境内の杉の木の伐採と売った代金の保管について、「代金三両二分は祠堂金に仕置き、年々極月十日を定めて、役人ども立ち会い取立勘定仕り、遊び金があれば貸付を致し、一割の利息を取って、その利を以て修復仕りたい」と檀家中相談の上、本寺金剛寺へ願い出たものである。檀那寺が無住の場合ではあるが、檀家が菩提寺の経営に主体的に関わっていた状況と、檀家が菩提寺に寄せる強い関心を汲み取ることができよう。
この祠堂銭を、財政の維持安定を目的に積極的に貸し出して利益をあげるなど、金融機関としての役割も果たすようになっていた寺院もあった。鎌倉八幡宮の供僧我覚院は、関戸村の金融業を営んでいた村民などに元金を融通していたし、上和田村の高蔵院や乞田村の吉祥院は周辺村落の村民へ貸し付けを行ったり(資二文化・寺社四五八ページ)、領主の御用金の立替を知行村から依頼されたりしている(資二社経91)。
市域内の寺院・神社の再建・修復や堂舎の管理維持のための資金の調達方法をみると、まず境内の立木を売って充当するという、檀家・氏子にとって、もっとも負担の少ない方法がとられることが多い。寛政二年(一七九〇)上和田村の高蔵院は、寺の経営維持のため、境内のもみじ一本を売却しようとした。その代金一両を、本尊不動明王へ寄進という名目で、中和田村の茂兵衛が金子を出し、もみじは残されることになった(資二文化・寺社四五九ページ)、天保九年(一八三八)にも境内の樫の木一本を五両で売り(〈史〉石阪好文家伝来文書115)、ともに祠堂金に加えられ、日常の管理維持および修復時の資金として保管されることになった。原関戸の観蔵院では、文久二年(一八六二)二月、大風で大破した本堂と庫裏を修復するために、不動谷戸の立木山を担保にして金子を借用して充てている(杉田卓三家伝来文書箱1―3―27)。
勧化もまたしばしば行われた。勧化は本来、仏の教えを説いて、教え導くことを指したが、次第に僧侶などが寺院の堂塔や仏像などの建立のために、金品を信者に勧めて出させることをいうようになっていった。幕府ははじめ勧進に積極的であったが、年を重ねるにしたがって増加したため、ついに寛延三年(一七五〇)四月寺社奉行に命じて、勧化の免許を幕府の建立したものか、または由緒のあるものに限ることにした。地域(国)と年月を限定したいわゆる「御免勧化」である。
在地では私的に小規模な勧化が続けられており、例えば、寛政十二年十一月、中和田村十二所権現の鳥居を建立するために勧化が行われ、その記録「勧化寄附帳」が残されている(資二文化・寺社四八四ページ)。勧化金は全村民一三名から任意に出金する形式を取り、氷(雹)祭りや村入用の前年の残りなどで補って建立している。十二所社はまた、天保六年に上屋の再建を行い、勧化の範囲は中和田に限らず原・堂下・上ケ組・後原・並木といった上和田村全体にもわたっている。なお、十二所社の修復・再建などは中和田村が関わっている場合がほとんどで、『風土記稿』に「上和田村」とするのは間違いであろう。
文化十二年(一八一五)に普請がはじめられた連光寺村の鎮守春日社の建立勧化は、前年九月から勧化帳が廻されている。村民はもとより縁故のある周辺村落の人々から集められた勧化金は二九五両に上ったが、入用金が四二〇両掛かり、結果一二五両の不足金を生じたほどの大がかりなものであった(〈史〉富澤千司家伝来文書156-2)。
同じ勧化でも、より小規模な場合には寄進米を集めていることもある。文久元年(一八六一)乞田村の八幡社の鳥居を建立したときは、社のある久保谷戸中の住民から寄進米を取立て、遷宮に要した費用は乞田・貝取の両村で分担している(有山昭夫家伝来文書201・伊野弘世家伝来文書73)。
寺院ももちろん例外ではなく、観蔵院では文久二年に本堂・庫裏の修復金勧化を行い、元治元年(一八六四)から翌慶応元年の二か年にわたって本尊薬師如来の修復と厨子のための勧化を、市域内はもちろん日野市・八王子市・府中市から江戸府内・浅草にまで及ぶ地域で行っている(杉田卓三家伝来文書箱8―74・203、箱7―99)。ほかにも吉祥院が八幡宮の本地仏のための勧化を、下落合村が東福寺の修復勧化を自主的に行うということもあった。
また講で資金を調達する場合もあった。講は元来、寺院で学僧が経論を講読することを意味したが、近世には宗教・経済・社交などさまざまな目的を達成するために組まれた結衆組織をいうようになった。天保二年(一八三一)二月、前年二月諸堂舎を残らず焼失した寺方村寿徳寺の再建を企て、その資金調達のために、会主寿徳寺および寺方村・関戸村の有志四名が、年三回四か年、全一二回で満会という講を組織し、口数三〇〇人以上になれば余分は掛金取り金に充当するという条件を付けて、加入者を勧誘している。天保六年貝取村大福寺で、本堂再建講が、年四回ずつ三か年、一二回満会として組まれ(杉田卓三家伝来文書箱10―3)、関戸村の観音寺でも、天保八年から十一年まで年三回、一二回満会として、再建のために講が組織されている(資二文化・寺社四六三ページ)。これらの建立講の場合は、加入者が籤(くじ)によって相互に金銭を融通しあう無尽講(頼母子講)の形をとり、その間の利金を修復に充てるということになる。
ところで、再建や修復あるいは屋根の葺替えの棟札や入用帳には、普請を請け負った大工の名が記載されていることがある。それらを拾い出してみると、
延宝二年(一六七四)正月 中和田村天満宮(天神社)葺替え 大工 小林九郎兵衛
天和二年(一六八二)九月 同 宝殿再建 大塚村井上七右衛門
同年 九月 乞田村 八幡宮(再建か) 小林九郎兵衛
宝永二年(一七〇五)二月 中和田村天満宮 葺替え 府中 大沢清兵衛
享保十七年(一七三二)十二月 同 宝殿造立 百草村石坂茂兵衛
延享三年(一七四六)四月 同 宝殿葺替え 大塚村井上勘六
文化十二年(一八一五) 連光寺村春日社 本殿建立 落川村棟梁茂七
天和二年(一六八二)九月 同 宝殿再建 大塚村井上七右衛門
同年 九月 乞田村 八幡宮(再建か) 小林九郎兵衛
宝永二年(一七〇五)二月 中和田村天満宮 葺替え 府中 大沢清兵衛
享保十七年(一七三二)十二月 同 宝殿造立 百草村石坂茂兵衛
延享三年(一七四六)四月 同 宝殿葺替え 大塚村井上勘六
文化十二年(一八一五) 連光寺村春日社 本殿建立 落川村棟梁茂七
などが見える。府中宿(府中市)・百草村・落川村(日野市)・大塚村(八王子市)など近在の大工で、基本的には農民の農間稼業であったと思われるが、近世後期に入ると、落川村の茂七のように大工棟梁を名乗り、専門化するものも出るようになっている。