この地域で、葬儀や年忌法要が菩提寺によって執行されるようになった時期は、諸寺院に所蔵される過去帳によって知る以外方法がないので、現在のところ明確ではない。しかし、葬儀や年忌法要の香典帳が、一七〇〇年代半ばから残されている家が数軒あることから(第一章第七節参照)、菩提寺による葬儀や年忌法要は、それより相当以前から行われていたと思われる。さらに香典帳を作成し、のちの参考に保存することがより一般化する近世後期には、かつて家格を勘案して付けられていた戒名の位階を、位階料を寄附することによって、より上位の位階に変更することが流行った様子さえも窺える。
ところで、キリシタン宗門禁圧の手段として設けられた寺請制度は、神祇を奉祠してきた神職に対しても例外ではなかった。神職の中には離檀しようとする者も現れたが、離檀すれば戸籍簿同様の宗門改帳から抹消され、戸籍を失うことになる。そこで神職らは、神祇道長上吉田家に直属することによって、神道葬祭の許可を受けるようになるのである。
享和元年(一八〇一)九月、廻村してきた吉田家本所の役人から、一ノ宮の新田・太田の両神主がともに神祇道の許状を得ていないことを指摘され、神主太田左内は来年中には免許状を願い出ること、今一人の神主新田平内はいまだ幼少により、成長次第願い出るとする一札を差し出している(資二文化・寺社四八七ページ)。神主太田家が吉田家に直属したのは約束通り翌享和二年であったことが、同年十二月本所役人へ受領官金(神官として国司名を名乗るための許可料)上納の延期願いを出していることからわかる。神主新田家が神祇道の許状を得るのは、これよりのちのことであったと思われる。
吉田家により組織化が進まなかった理由には、江戸役所の設置が遅れたこともあったが、最大の理由は個々の神職が上京して官位や許状を得るための費用が多くかかるところにあった。神職自らがこの費用をまかなえる場合はともかく、多くの場合は、神社それぞれの氏子圏の村が負担しなければならなかったという事情もあったのである。
氏子というのは、簡単にいえば神社の祭祀圏を構成する人々のことであるが、氏神の概念が、鎮守神や産土神と同一視されるようになった近世初期の動向と、村という地域的単位が従来よりもはるかに重要視された郷村制の発展に応じて、氏神も地域社会の守護神の性格を強めるとともに、氏子も同一地域内の祭祀集団という性格を持つようになった。文政頃(一八一八~一八二九)の多摩市域内には、第二節で概観したように屋敷神と思われる小さな祠も含めて、全二四社にのぼる神社があった。うち神職のいる神社は一ノ宮社一社のみで、別当または寺持ちの神社が上和田村愛宕社(高蔵院)・中和田村十二所権現社(高蔵院)・関戸村熊野社(熊慶寺)・連光寺村諏訪社(薬王寺)・落合村白山社(東福寺)・乞田村八幡社(吉祥院)の六社、残る一七社は村持ち・個人持ちおよび祭祀者不明の社であるが、屋敷神を除き、大きい氏子圏で、一・二か村、小字程度の小さな範囲のものもあった。
社殿や鳥居の建築・修復や、屋根の葺替えなどを含む神社の管理・維持が、村の人々(氏子)によって主体的に行われていた様子はすでにみてきた。これらの主要な財源は、勧化や講という、村社会の拘束力はあるが強制力のない方法が取られ、財力に応じた拠出が可能であり、また例年のことでもなかった。祭礼用の道具なども勧化によって調えられている(有山武三家伝来文書438)が、祭礼は違った。安政三年(一八五六)八月十九日の落合村白山宮の祭礼を例に取ると、入用銭は長銭で合計一二貫二〇〇文、これを上郷四二軒・下郷三四軒の計七六軒で割合い、一軒一六五文ずつ徴収している(資二文化・寺社五一三ページ)。半天や花笠着物など祭礼用の装束や神酒の寄進はあるが、祭礼の経費が軒別に割り当てられるのは、他村でも例外ではなかった。関心を引くのは、この年の祭礼には、白山宮の別当地である東福寺の関わりがまったくみられないことである。そこには生きる拠り所、精神的紐帯として、村人が平等に、積極的に神事・祭礼に参加している意志さえ感じられる。弘化四年(一八四七)、貝取村蔵王宮(御岳社)に奉納された一対の幟をめぐって、訴訟に及ぶ事件が起こった。発端は、氏子の一人が、この幟を博奕の借金の担保に借用したいと申し出たことにあった。無論拒否されるのであるが、すると今度は、自分の奉納分だけ幟を切りとることを要求、村は処置に困り、地頭(領主)へ訴えることになった(市川篤一家伝来文書61・62)。この氏子の言い分は、世間には通じない主張であるが、氏子としての権利と参加意識の表現と受け取れなくもなかろう。
図6-50 白山宮祭礼諸入用割合帳
鎮守の祭礼の日はまた、年に一度村中でかかわる娯楽の場でもあった。神楽が興行され、菩提寺の住職による読経や奏楽など法楽が行われ、和歌・連歌・俳句・芸能も奉納された。天保十年(一八三九)八月に、連光寺村で二十五座神楽が興行されている。若衆組の主催であったが、この興行全体の請負者は別に入札によって決められ、九両と三匁六分五厘で乙二郎が落札している。この日は二五曲の神楽が演じられた後、影絵も行われており(資二文化・寺社五一六ページ)、見せ物の種類も結構多かったことがわかる。連光寺では続けて翌年も神楽興行があったが、慶応三年(一八六七)九月には乞田村八幡宮の祭礼でも神楽料一両二分を払い興行している(佐伯信行家伝来文書110)。史料は残されていないが、他の村々でもさまざまな娯楽的行事が行われていたことは推測できよう。