この地域で行われていた信仰行事は、ひとつは年中行事的に繰り返し行われる民俗行事の範疇に入れられるもので、あとひとつは臨時に発生する事態に対処するために行われる行事に大別される。
年中行事的な信仰行事の代表的なものとして、日待ちがある。日待ちは人々があらかじめ定めた宿に集まり、前の夜から忌み籠もりをして、飲食や娯楽に興じながら日の出を待つ行事である。神の降臨を迎える信仰形態を持つ民俗行事で、月待ち・庚申待ち・子(ね)待ちなど、類似の行事は多い。
ほかに氷祭り(正しくは雹祭りで、関東地方で四月に行われた雹除けの祈祷行事)・風祭り(秋の収穫前の大風を避け、豊作を祈るために二百十日・二百二十日や八朔の頃行われた祭り)も行われた。行事ごとの記録はないが、ほとんどの村の「村入用帳」に、その費用を軒別に割り付けている記載がある。
臨時に行われる代表的な行事に雨乞いがあった。稲作農業を生活の中心にしてきた日本では、水の需要は絶対的なもので、干ばつには村の鎮守に籠もったり、宗派を越えて村々の寺院の住職らが大般若経を読経するなど、種々の祈願をして雨乞いをすることが多かった。並みの日照りには、乞田村と貝取村、あるいは上和田・中和田・百草・大塚村というように、数か村ごとに協同して祈雨の祈祷が行われていることが多いが、干ばつの甚だしい年には、より広範囲な村々による大掛かりな雨乞いの祈祷も行われていた。
慶応三年(一八六七)七月、連光寺村忠右衛門と乞田村太郎左衛門の二人が世話人となり、府中六所宮(大国魂神社)の宝剣を招待して、九か村を順行継ぎ送り、降雨の祈願をすることになった。世話人両人で打ち合わせて六所宮へ交渉し、許可を得ると早速、連光寺―乞田―貝取―下落合―上落合―中野―大塚―和田―百草後原組の順に九か村を巡回することにした。当日は明け六つ(午前六時)に府中まで迎えに出て、一日のうちに廻村し、帰りは各村からの人足が多摩川渡船場に落ち合って、府中へ送るというものであった。費用は祈祷料から一ノ宮渡船場へ渡した酒代に至るまで、すべて五両と四〇〇文掛かり、連光寺村二分一朱、百草後原組一分一朱は別格で、残り七か村はそれぞれ三〇〇文ずつ分担している(資二文化・寺社五二一・五二二ページ)。
神に降雨を祈る風習は古くからのもので、対象とされる神は、雨をつかさどると考えられていた雷神と竜神がとくに多く、ほかに雨神・滝神など水に関係する神があるが、滝や淵は雨乞いの場所になった。文久元年(一八六一)と慶応三年(一八六七)に、落合・乞田・貝取の三か村で大久野滝へ雨乞いの代参を出している(佐伯信行家伝来文書109・158)。大久野滝は大久野村(日の出町)の白岩の滝のことと思われるが、『風土記稿』には祈雨に関連する記事は見あたらず、大久野滝で雨乞いを行う風習は、天保期より後のことであったかも知れない。なお雨乞いに要した費用は、ほとんど例外なく田畑屋敷の持ち高による高割にされ、降雨によって受ける利益を基準にした受益者負担が原則となっていたようである。