参詣講と寺社参詣

1121 ~ 1122
近世、交通や宿泊施設が整備されるに従って、寺社参詣をする人々が急激に増加していった。参詣の対象となった寺社は、伊勢神宮・善光寺・金比羅宮・出雲大社などのように、全国から参詣者の集まる霊場と、出羽三山・熊野三山・長谷観音・石山寺・成田不動のように、信仰者の区域がやや限られているものとがあった。江戸の人は浅草観音や成田不動に参詣し、京都の人は清水観音や伏見稲荷に詣で、大坂の人は四天王寺や野崎観音に参詣するというように、近隣の寺社への参詣も多かった。また富士山・御岳山・月山・白山・大峰山・石槌山のように、夏のみ登拝の行われる山岳信仰もあり、西国三十三所・四国八十八所や、関東では秩父三十三所など、特定の霊場を順次参詣する風習も一般化していった。同時に、信仰に加えて観光的な要素も強くなっている。
 この地域での遠隔地への参詣は、伊勢参宮がもっとも多くみられ、その他富士山・善光寺・武相三十三所などが見える。遠隔地の場合は費用も多分にかかるため、まず参詣講が組まれる。伊勢参宮の場合は、参宮して太々神楽を奉納することを目的に、発起人によって「伊勢太々講連名帳」が作成され、講中に廻されるのである。安政三年(一八五六)貝取村伊野平蔵・乞田村有山文平・関戸村相沢源次郎の三人が発起人となり、瓜生・貝取・乞田・上和田の人々が講中となった(資二社経72)。翌安政四年には落合村が世話人となり、落合・中野・堀之内の三か村で、三六人の加入者を集めている(資二文化・寺社五一六ページ)。参詣は講中全員で出かける場合もあったし、富士参詣のように体力が要求される場合には代参を立てることが多かった(小林正治家伝来文書45)。なお、こうした帳簿には名字の記載が多くみられ、公的には名字・帯刀を許されていなければ使用できなかった名字が、信仰などにかかわって私的に使用される例はしばしばあった。

図6―51 伊勢太々講連名帳

 当人が直接に参詣しないまでも、参詣の旅をする者を泊めたり、ものを施したりすると、参詣者と同じ利益があると信じられて、例えば四国では「善根宿」や「お接待」の風習があるが、乞田村の「廻国六十六部宿帳」(有山昭夫家伝来文書200)には、延享元年(一七四四)から明和九年(一七七二)に至る約三〇年間、「報謝宿」と称して、六十六部をはじめ、あらゆる旅の信仰者ほかの宿泊状況が記載されている。これらの宿は特定の家だけではなく、村で持ち回りに負担したと考えられ、信仰行事の範疇には入らないであろうが、信仰的行為として挙げて置かなければならないと思う。