本編は明治以後の近現代史を詳述しております。多摩は明治維新の政治改革期との関わりの中で政治的に大きな変動期を迎えたものと思います。資料としても散逸の度合いは少ないものと思われ、伝聞するものも多く手掛かりは得やすい面もあったでしょうが、反面、資料の取捨選択には配慮を要する面も多かったものと思われます。編集執筆者のご苦心も偲ばれます。
教育はいち早く学舎、学校の形で地域の先覚者によって子弟の教育が行われました。明治四十五年一校に統合され、本校、分教場として続き、約五十年後に学区変更はあったものの、それぞれ独立校として第一小~第三小として受け継がれました。明治の幕開けが住民の心に、大きな喜びと期待そして希望をもって迎えられ、今にその伝統を継承されたことを喜びます。
行政的には幕藩政治から脱却して近代的政治形態に移行し、他面自治形態も変化や離合集散の著しい時代であったと言えます。特徴的なことは村組織の変化と、神奈川県から東京府への編入であったでしょう。これによって多摩川中、上流域は殆ど東京府に統括されました。この移管については当時政争の具になり、三多摩壮士の活動が顕著に現れた時期でありました。自由民権運動とも相まって、「三多摩」を歴史に銘記する大きな理由になったと思われます。この移管の混乱の一端を現わすものとして、一ノ宮旧渡船場跡に現存する水量標にみられます。埋設時点が明治二十六年四月、神奈川県と刻まれています。即ちその直近まで帰趨を判断し兼ねた当時の緊迫した状況を推察することができます。
近代については、多摩ニュータウンを除いては多摩を語ることが出来ないほど多摩の変遷の大きな部分を占めています。村から市へ、他に農山村から近代都市へと住環境の急展開は例を見ないであろうし、村から中堅都市への発展、なかでも村域イコール市域、つまり合併を伴わない都市としての多摩は特筆すべきことでありましょう。また「多摩」の地名も今はこの市に残るのみになりました。
『通史編二』は多摩市の近代化の枢軸として、多くの市民に愛読され、多摩を理解し、愛着を持って頂けることを願うものです。これによって、多摩市史の編さん事業の総ての作業を終了しますが、収集された膨大な資料は、殆どはマイクロ化されたとはいえ、原資料に勝るものはないだけに、分類、整理、索引と今後の利用にも配慮を要しますので、保管管理を含めて、引き継ぎを完了したいと思います。
最後に尊い文書、伝承された形、表現、数々の資料を提供頂いた方々に厚く御礼申し上げます。また、数多くの資料その他を取捨選択、整理統合されて執筆に当たった編集委員、専門調査員、調査補助員、事務局員さらに調査取材にご協力頂いた市民の方々、幾年月の寒暑を超えてのご努力に心から敬意と感謝を申し上げます。
平成十一年三月
多摩市史編さん委員会会長 新倉勇造