監修者のことば

 多摩市の文化事業としての『多摩市史』編さん事業は、このたび『多摩市史 通史編一』に続いて『多摩市史 通史編二』が刊行される運びとなった。この通史編二の構成は、第一編近代と第二編現代となっている。第一編近代は、「明治」と「大正・昭和戦前期」の二つに分けられ、第二編現代は敗戦から現在までを扱っており、それぞれの冒頭に「概説」を設けて展望を述べている。
 「明治」は、行政の特色をとらえて全体を五期に分けて論述している。第一期は維新期、第二期は大小区制期、第三・四期は三新法時代、第五期は明治二十二年(一八八九)の多摩村成立期である。それらの区分けのなかに、郷学校、馬車道、自由民権運動、困民党事件、そして青年会や車人形などの歴史が見られ、多摩村も他の地域と共にそれぞれの歴史の一翼を担っていたことが明らかにされている。
 そのような中で、明治十年代に、明治天皇が連光寺に狩猟と鮎漁に四度もみえたことは、当時としては異例のことで、多摩村に独自の歴史をつくり出していった。連光寺に御猟場がつくられて周辺村落に拡大され、戦前の多摩村の象徴であった聖蹟記念館が設立されたのも明治天皇のこの事蹟に求められている。
 「大正・昭和戦前期」では、まず大正期に、明治末年の戊申詔書に基づいて地方改良運動が展開されていった。多摩村において、行政とともにこの運動を積極的に進めていったのは青年会であった。他方、大正末年に、村に玉南電車が走り家々に電灯がともされて、多摩村は生活革命を迎え、人々は近代文明を享受していった。
 第一次世界大戦の戦後恐慌に続いて関東大震災により経済界は打撃を受け、昭和は暗闇のなかに明けていった。さらに金融恐慌から世界恐慌によって農村は立ち上がる術もなかった。その時、多摩村に近代的な西洋建築の聖蹟記念館が建てられて、村に希望と新しい事業への期待をもたらした。
 時代は十五年戦争を迎え、戦火が激しさをますにつれて多摩村でも多数の犠牲者を出し、戦争の惨禍は所々に現れていた。かくて昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦を迎えることになった。
 戦後、多摩村は荒廃の中から再起していった。軍事施設の処理にはじまり、農地改革や新制中学の建設に取り組んでいった。その後の多摩村は、まさに驚異の変貌をとげていった。その契機は昭和四十年(一九六五)前後から開始された多摩ニュータウンの計画と実施にあることは言うまでもない。昭和三十九年に多摩村から多摩町にかわり、僅か七年後の昭和四十六年に多摩市に変わったことからも急速な変貌を知ることができるであろう。
 多摩ニュータウンは、昭和四十六年の入居以来、本年で二十八年目を迎えた。人口はニュータウン地域約一〇万、既存地域約四万で、多摩市は約一四万の人口を抱えた近代都市に成長した。住民運動や文化運動も盛んに行われている。今後の展望を含めて第二編の現代は叙述されている。
 歴史を振り返るとき、どの地域においても、人間が人間を差別する制度や差別する表現があったことに気が付く。そこでそうしたことを除外してしまうと、歴史に学ぶという真の意味が失われてしまうことになりかねない。そのような意味から本書は史料に見られる差別を示す表現について手を加えることをしなかった。これは差別に対する深い反省と、差別を引き起こす偏見を解消するための作業と考えているからである。
 本書の刊行をもって多摩市史の編さん事業はすべて完了するが、今までの道程をふりかえると感慨無量である。本書の編さんのために資料を提供された方々、関係諸機関・関係諸団体をはじめ、編集・執筆を担当された編集委員・専門調査委員・調査補助員ならびに事務局の方々に、衷心より感謝を申し上げる。また、この『多摩市史』の刊行により、一人でも多くの人々が、郷土多摩の歴史に興味をもっていただければ幸いである。
 
 平成十一年三月
多摩市史監修者 福田榮次郎