多摩市の近現代史をつくりあげるなかで、わたしたちがあらためて注目したのは、近世から明治初年にかけての八つの旧村―大字を基にして、明治二十二年(一八八九)に生まれた多摩村が、単独村で短い町時代を経て多摩市となり、この間、大規模な多摩ニュータウンを築く主力となったそのユニークな地域の動きであった。全国的にみても珍しいこの経験は、もとより多摩の地のきわだった個性的な近現代地域史を刻んだことにもなる。が、それとともに、都市近郊農村という立地と条件を考慮にいれても、現在、多摩市が直面している諸問題を視野におさめながらここの近現代史を振り返ってみると、多摩市史というレンズを通して、日本の近現代の流れ(ジェネラル・ヒストリー)を再検討し、見直すこともできるような気がしてきた。
そこで、この巻の編集プランを作成するにあたっては、渡辺隆喜、沼謙吉、それに金原の三編集委員が何回かにわたり協議を重ね、近現代史の構成の大枠と執筆要領などについての共通理解をもち、そのうえで、叙述の細部にわたるプランの検討にはいった。三編集委員の間では、この巻で取り扱う多摩市史の近代と現代の区切り(時期区分)を昭和二十年(一九四五)におき、それぞれの時期に概説をつけることで一致をみた。
概説は、近代を渡辺と沼、現代を金原が執筆することとしたが、近代を「明治期」と「大正・昭和前期」に分けたのは、『多摩市史 資料編三 近代』と『同 資料編四 近現代』の区分けにしたがったまでであり、第一次世界大戦の終結時を時の流れの一分水嶺として重視したほかはとりたてて根拠はない。
こうして、わたしたちは、資料編の構成にならって、執筆に先立ち、渡辺を中心とするグループと沼・金原らのグループに別れ、通史の構成案を練り、ストーリー(筋書き)をつくって討議を重ね、執筆への態勢を整えた。執筆者は別掲の一覧によっても明らかなように、人数も多く、しかも、三〇歳前後の新進気鋭の世代から四〇歳代の中堅、さらにその上のヴェテランというチーム編成をとっている。そのため、この巻の執筆、メンバーのそれぞれの文章をつなぎ合せて、まとまった作品に仕上げていくのは、容易な業ではない。こういったことは、はじめから予想がついていたので、グループ討議では、もっぱら資料の扱い方や叙述スタイル、執筆項目の割り振りなど木目細かい検討を繰り返しおこなってきた。その準備の過程での努力の成果は、多少なりとも実を結んでいるはずである。
もっとも、近現代と一口に言っても、記述となると、問題は残る。というのは、この巻を見ていただければ分るが、近代の部分は、まさしく歴史叙述のスタイルをとっているが、現代の場合は、どうしても「現状分析」的なアプローチの視点と手法を取りいれざるをえないからである。だから、現代を歴史として扱うにせよ、時系列の配置を重視しながらも、どうしても経済学、財政学、政治学、行政学、法律学、社会学などの記述様式を文脈のなかに織りなしていかざるをえない。もし、近代と現代との間の文章のトーンが異なる印象をあたえているとすれば、それは、いまのべてきた事情の違いによっている。
この巻は、冒頭でのべたように多摩市域のはじめての本格的な近現代史の通史である。この通史を一つの作品として皆さんにお目にかけることができたのは、資料編を作成するとき以来、わたしたちの資料の調査と蒐集にあたり、長い間ご協力をいただいた各機関、個人の方々のおかげであり、さらに、市史編さん室の日常業務を越えた支えも大きな力添えになっている。
ただ、本格的な通史といっても、この叙述は、はじめての試みである。資料の制約や文章を展開するにあたっての方法からして、重要なことがらにもかかわらず手薄になった論点が多々あることも承知しているし、思いもよらないミスもあろうかと思う。これらの欠陥は、微震程度であると信じているので、関係筋のご海容をいただくことにして、本巻を手がかりに、今後、多くの人の手でリビジョニズムの精神にのっとり、多摩市の通史をより密度の高いものにしていただくよう切望しておきたい。と同時に、この一〇年余にわたって、わたしたちが集積してきた近現代関係の諸資料に市民の皆さんが関心を寄せられ、活用してくださることをお願いしたいと思う。文書資料の保存と公開を目指すデータベース化に本格的に取り組む作業は、これからの大きな課題であるとしても、多摩市のビジョンをえがくうえで、地域の歴史・行政情報を無視することはできないからである。
いま、わたしたちは、市の修史事業をつうじてようやくデータバンクをつくりだすという成果を手にすることができた。この共有財産を、これから実り豊かにしていくことができるならば、市史編さん事業はいついつまでも生き続けていくことになろう。
平成十一年三月
多摩市史編集委員 金原左門