明治期の多摩村

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 多摩村は明治二十二年(一八八九)四月一日に誕生した。それゆえ明治期は江戸時代以来の旧村が継続する前半と、多摩市成立まで継続する多摩村の基礎が成立した後半とに区分される。明治期の四十五年間は旧村時代と多摩村時代がちょうど半々であったことになる。
 旧村時代は関戸、連光寺、一ノ宮、貝取、乞田、落合、寺方、和田の八か村から成る。各村が各々生活上の単位となり、また行政上の村でもあったが、幕末期以来、旧八か村は地縁的つながりを基礎に行政的にも経済的にも寄場組合や商品流通をつうじ密着化しつつあり、このことが多摩村形成の基礎にあったことはいうまでもない。旧村は大字(部落)となり多摩村という行政村が成立したことは、逆にいえば生活上の共同体である各集落の連合上の諸機能を集約して多摩村が誕生したともいえる。生活村と行政村の相関上の特色が明治期をつうじ、どのように形成されたかが問題となろう。
 ところで、明治期の多摩市域の村々の行政上の変化をみれば五期に区分される。第一期は明治元年から四年に至る時期で、江戸時代以来の延長期である。第二期は明治四年(一八七一)四月の戸籍法制定以来、戸籍事務担当者として戸長がおかれて、その他の行政事務を担当する名主と併存する。明治五年四月に名主が廃止され、戸籍事務は一般行政事務とともに戸長が担当することになり、明治十一年七月まではこの戸長を支配者とする区番組または大小区制の時期となる。過渡期の五年四月までを第一期の名主時代に含めれば、第二期はそれ以後の区戸長体制による大小区時代ということができる。村が行政上は否定される時期である。
 第三期は江戸時代の村が行政的に復活する明治十一年七月(郡区町村編制法による三新法体制期)から二十二年三月までである。各村に公選の戸長とこれを補佐する筆生がおかれる。しかし明治十七年五月に連合戸長制が成立し、公選戸長が否定され官選戸長とし町村会議長を兼ね、行政権が強まり戸長役場も数村単位で設置する一種の広域行政体制となる。連合戸長制は自由民権運動による農村自立の革新化を否定するための行政上の措置とされているので、第三期は十七年四月までとし、その後のこの連合戸長体制期を第四期とする。第四期は明治二十二年四月の多摩村成立の前提ともなる時期で、多摩村形成の過渡期であった。
 第五期は二十二年四月以降四十五年までで、多摩村が成立し、旧村が大字となる時期である。町村長、助役、収入役の名称が成立し、これまでの区戸長が消える。役場吏員も筆生から書記にかわる。
 以上の村落単位の性格変化は、全国的なもので多摩村に限ったことではない。多摩市域の歴史的展開の特色は、このような行政上の変化にいかに対応したかをみることで明らかになる。この場合、多摩村の地理的位置も密接に関係する。
 多摩地域は多摩丘陵の中央部に位置し、シルクロードともいわれる八王子・横浜間の中間地域でもある。この地は明治二十六年には神奈川県から東京府に移管されるように、経済的には明治期をつうじ前半は大消費地形成途上の新興横浜と、後半は近代都市化する東京との後背地としての養蚕地帯であったところに特色がある。明治期多摩地域史の基本的性格をなすこの特色が、各期にどのように表現され地域的性格を構成するかを概観しておこう。
 第一期は戊辰戦争を契機とする維新期の多摩地域である。本編の第一章がこれにあたる。基本的に江戸時代の延長期であるが、明治期となり変革始動期でもある。官軍が多摩地域を通過する慶応四年(一八六八)三月を中心に、人馬徴発、兵糧米金調達として直接的負担を増す地域で、一方で治安の不安定に悩む。幕府と朝廷との戦闘中という権力の空白期に生じたこの地の混乱は、それまでの支配者であった旗本層の移動ともかかわるが、やがて神奈川県が成立し鎮定される。当時は米麦中心の養蚕地帯という性格のまま、明治二年(一八六九)の全国的大不凶を経て、新しい時代への対応を強める。
 新時期到来の動向は、政治的には凶作を克服する過程で村政担当者の不正追及となり、選出法の公選化をすすめる一般農民の意思自立を促す。これは交通政策としての助郷組替え問題にも反映し、行政の一元化もすすむ。戸籍行政を独立させる区制設置と戸長の創出は、やがて後の大小区制の前提ともなる。教育上は寺子屋から郷学校が創立され系統化が図られる。維新期の変革は一方で国学思想を基本に神道国教化政策がとられる。天皇を主権者とする国民意識の統合が図られる。多摩地域でも白山、小野神社をはじめ神仏分離が行われ、社格が決定し、伊勢神宮を頂点とする神社体制のもとに組織化され、国家神道の基礎が整備される。
 第二期は明治五年以降十一年までの大小区制期の多摩地域の様相である。本編の第二章がこれに相当する。この時期は文明開化期で近代化が急速に進む時期である。多摩地域は明治四年四月の戸籍法公布により神奈川県第三二区に編成される。この戸籍区は行政区化されつつ五年を経過し、明治六年五月に区番組制の採用により多摩地域は第八区七、九番組に所属した。七年六月に大小区制が採用され、多摩地域の村々は第八大区六、八小区に編入される。大小区制下では区会、町村会が置かれ代議制採用が努力された。第八大区は県下でも活発な地域であったらしい。
 経済的には殖産興業と地租改正の時代であり、資本主義形成のため国内生産の実態調査がこの時期の特色であった。調査によれば多摩地域は米麦中心の主穀作地帯で、水田は少なく畑勝地であり、穀類移出地であると同時に養蚕、製糸の生産も活発であったことがわかる。特産は玉川鮎、目籠、柿、氷などであるが、これ自体は土産的なもので資本制生産とは無関係であった。専ら製糸業が時代性を反映する。
 地租改正は国税徴収の基礎を確定するための土地税制改革である。前提としての壬申地券交付事業から、本格的改正としての改正地券交付事業へ移行するが、土地測量のうえ実施される地価算定による新地租の確定は、一ノ宮村以外はすべて増租となった。特に連光寺村は倍増し、負担は強まる。村落社会の変化は近代市場への編成として、架橋とともに渡船慣行の変化として、また道路整備として始まる。一ノ宮渡船から一ノ宮、関戸村渡船そして、第八大区八小区渡船場への変化は、人馬、商品流通の増大と関係する。馬車道は結局整備着手前に中止になったが、製糸業中心の国内市場の円滑化とかかわっている。
 文明開化は特に小学校教育に特徴的にあらわれる。処仁、陶民、潤徳、生蘭学舎として始まった市域の各小学校は再編をくり返す。学校は学区取締のもと勧学掛、学校世話役が各校におかれ教育行政を担当する。村民負担の学費捻出が図られるが、この四校の就学率は全国的にみても相当高い。学校新築も連光寺では順調であったが、他村においても努力が重ねられたようである。学校をつうじ地域開化もすすむ。芝居、手踊りの統制、伝染病予防、種痘の普及が図られ、明治五年十二月の太陽暦採用とともに、一日二四時間制、曜日の導入、日曜休日制が浸透する。写真利用も始まる。邏卒(巡査)制度や徴兵制が始まり洋装も教師、巡査、兵士をつうじ村に入る。この時期の多摩地域は比較的積極的に新時代に対応しようとする姿勢があった。
 第三期は三新法時代の前半期で、明治十一年七月から十七年四月までである。本編では第三章がこれにあたる。三新法時代の後半となる第四期の連合戸長時代もこの三章に合併され記述されている。ここでは第三、四期をあわせて概観しておこう。この時期は大小区制が廃止され、江戸時代の村落が行政上復活する。武蔵国多摩郡は広域のため南、北、西に区分され、多摩地域は南多摩郡に所属する。この時期の時代背景は自由民権運動の成長と松方デフレ政策による農村不況であった。前者は第三期の、後者は第四期の特色となる。
 多摩地域は自由民権運動の中心地域ともいうべき南多摩郡の中心部(旧第八大区)に位置する。町村会が公式に成立し連光寺村会では貧民負担にともなう戸数割を三分とし、地価割を七分と決している点に、歳入上の平等性が、県方針以上に留意されている点が認められるが、協議費財政は戸長役場費などの行政費や土木費が多く、全国的傾向と同一であった。町村会審議に多少の革新性が認められるものの、民権運動の中核的担い手の地盤とは思えない。多摩地域の民権運動には伊野銀蔵、伊野菊次郎、柚木芳三郎らが登場するほかは積極的かかわりは見られない。
 多摩地域の各村が不景気に襲われるのは十七年である。同年五月、行政上は旧八か村に百草村を加え「関戸村外八か村組合連合戸長役場」が関戸村に置かれる。戸長は関戸の小林祐之である。この役場成立期の多摩地域は極端な不況下にあった。一戸当たり負債額は一七三円余で南多摩郡各村の間で第三位に多い。特に一ノ宮村の五一〇円の負債が最大で、次いで貝取村の二一〇円が多い。このことが困民党、借金党を生み、銀行襲撃事件を起こす契機となった。生活費を銀行貸し金に頼み、それが返済不能となるからである。武相困民党総代に落合村の須藤幸二郎がいるので、事件の背景に多摩村の実態が関連したことは間違いない。多摩の地租軽減請願運動も活発であった。
 明治十五年五月、連光寺村を中心に一二一三町歩余の地域に連光寺村御猟場が設定される。御猟場の設定にともない天皇の兎狩や多摩川鮎猟、天覧などにともなう勢子人足、鳥獣被害、生活規制など地域住民への新たな負担を生む一方、天皇権威を地域に浸透させる出張所の役割を果たす。元寄場組合大惣代で県会議員、監守長の富沢政恕が国学系詩人であったこととも関連し、地域文化の天皇崇拝性も高めている。民権思想と天皇思想は相矛盾しながらこの地に混在した。
 第五期は多摩村成立期である。本編では第四、五、六章に相当する。多摩村は関戸村外八か村組合を母体に、百草村のみが分離して成立する。百草村飛地、落川村飛地も編入される。新村成立関係資料が残っていないので確定できないが、多摩村の名称はおそらく丘陵名か多摩川の名が深くかかわったものと思われる。多摩村の最初の役場体制は、村長富沢政賢、助役真藤龍蔵、収入役小川平吉、書記加藤英文であった。村会議員一二人による初期村会は比較的順調に運営されている。日清戦争以後は議員の欠席が多くなり、半数ようやく出席の過半数村会となる。村会審議の主たる内容は、明治期をつうじ①村長ら吏員の選出、②村内各種委員の選出、③村財政の審議、④県・郡役所から命ぜられる新事業への対応、⑤村内固有問題の処理などがある。①の人選をめぐる大字間あるいは政党間、人的な対立など微妙な点は明らかではない。
 ②村財政の推移の特色は歳入出の各々の最大費目に示される。歳入の最大費目は村税収入であり、歳出の最大費目は教育費である。教育費は財政支出の七割以上を占める場合が多いが、多摩の小学校が明治期をつうじ一本化できず兆民学校、向岡学校、処仁学校の三校体制であったこともあり、それだけ支出も多く、完全な教育費財政の村といえよう。教育費は教員俸給増大にともない膨張するが、資本主義形成にともなう俸給の上昇と、地域民力の負担度との相関として問題となり、村内の貧富対立に学区間対立が重なりあって村会の場で対立が発生することもあった。しかも財政上の歳入の多くは村税に頼ったから、村税の賦課目上の比率の変化によっては貧民負担を増し、村税未納者を生むことになる。多摩村財政の特色は、貧富にかかわらず平等負担となる戸数割が、明治期をつうじ多くなり未納問題が村政上の大きな問題になった点である。
 村会審議上のもう一つの柱④は、たとえば就学奨励や補習科・高等科設置による教室の少なさの解消、義務教育の四年から六年への年限延長にともなう校舎新築などの教育上の要請のほか、日清・日露戦争による兵事を中心とする戸籍事務の増大、これが戸籍兵事課の独立による役場職員の膨張を促し、役場費の増大に帰結する。そのほか伝染病予防、出征者留守家族への救助問題も、結局は村政上にはね返る。軍国主義化のための恤兵会、在郷軍人会の援助なども財政負担を増す原因であった。多摩村財政が教育費財政に加え、行政費とともに支出の九割に達する年度もあり、これが年々膨張する関係であった。むしろ多摩村固有の土木費や勧業費が少ないという他方の特色もある。村政的には国家行政に対応するに急で、足場固めの少ない村であったように思われる。
 村会審議の最後の柱ともいうべき⑤は、前者とかかわり村内生産基盤の整備や経済振興が問題となる。村道改修、治水などの諸経費は意外に少なく勧業費も少ない。政府の奨励による農事改良組織としての農会や、中小農民への融資を担当する産業組合などが三十年代各地に成立し、地域経済を主導するが、この取り組みも多摩村は遅い。農会は明治二十九年四月に成立するが、積極活動は四十年代以後である。産業組合は村独自の組織は明治期にされていない。多摩村銀行も成立するが、その実態は明らかでない。
 右の如き特色は多摩村の経済的構造と関係するように思われる。多摩村は南多摩郡下で所得税組入資格者数は下位三位の少ない村である。所得は当時、土地経営から得られる場合が多かったので、明治三十年代の土地所有規模をみれば、村内最大地主は耕地の場合、富沢清斎家の一三町五反余歩、ついで杉田林之助家の一一町七反余歩である。山林・雑地も含めると富沢清斎、富沢政賢、岸為助家が多い。二町歩程度が自家労働力による自作規模とすれば、他は小作地となるが、地主規模は他町村に比較し多いとはいえない。小作地率(明治四十四年当時、水田六三パーセント、畑六四パーセント)は郡平均より高い。それゆえ多摩村は中小地主と小作人的性格をもつ農家が多い村ということになる。純自作層は少なく富農層とともに革新性を有する村としての性格は弱い。封建性を残しつつ中小地主層中心の村落運営が行われていた。畑作生産力は高かったが、米麦中心の主穀作と養蚕の村という基本的性格は明治期をつうじ変っていない。東京府編入当時の明治二十七年および三十五年の、郡役所調査による多摩村村政の評価は、特に問題のない平均的な村落とされている。これは右のような村内構造上に推移する大勢順応型の村政の総合的評価であったように思われる。   (渡辺隆喜)