大正期の村の概況

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大正時代は、第一次世界大戦後の大正九年(一九二〇)を境に、明と暗をはっきりと分けた時代である。前半は成金ブームを頂点に明るい時代であったが、九年三月に戦後恐慌が発生し、さらに十二年九月に関東大震災の追打ちによって暗の時代に転落した。時代を明暗に分けた九年には第一回国勢調査が実施された。
 この大正九年の十月には「多摩村巡視調査事項」が出されている。政府は早く「市町村巡視規程概則」(明治二十五年五月)を決め、これにしたがって各府県ともそれぞれ巡視規則を設けて、郡吏による町村巡視・指導を強化した(大石嘉一郎『近代日本の地方自治』)。多摩村で行われた「巡視調査」をみると、一一分野に分けて詳細に報告されて、当時の多摩村の概況を把握することができる。それによると、大正時代の村の行政は、日露戦争後に開始された地方改良運動と一体になって進められている。とりわけ運動の中心にいた内務官僚井上友一が大正四年七月、東京府知事に就任して以来、より一層推進されていった。
 大正時代の社会は大正デモクラシーといわれた時代である。村会議員選出の選挙制度も短い間につぎつぎと変わっていった。三年ごとの半数改選が任期四年全員改選となり(大正二年四月実施)、大正十年四月には、それまでの一級・二級制度が廃止されて選挙人が増加し、十五年には長年の普選運動によって普通選挙制度が採用された。このことは、大正デモクラシーの直接的反映であった。郡長・郡役所が廃止されたのもこの十五年の六月であった。
 大正時代、多摩村の行政での注目される事業に、大正四年の御大典を記念しての御大典記念事業と、大正七年、全国的に米騒動が発生した時、恩賜金を受け他の町村と連携して実施した米の廉売がある。
 大正期の村の産業は農業が主体であった。大正五年の調査では、村戸数六七二戸のうち農業は五六八戸で全体の八四・五パーセントを農家で占めていた。村の土地利用は田が全体の一四・一パーセントで、畑は二二・六パーセントである。農産物の生産高は米が圧倒し、価格として八万一一八七円で五六・八パーセントを占め、価格としては小麦・大麦がそれに続いている。副業は養蚕と目籠(めかい)の製造が盛んであった。養蚕業では大正七年に東京府で養蚕組合設置奨励規程が発布され、郡農会の奨励の結果、郡内各町村に組合が結成され、多摩村でも大正十年、十一年に多摩村多摩養蚕組合ほか二組合が設立された。
 品評会が盛んであったのも大正期の産業の一つの特色である。大正八年一月「南多摩郡産業奨励要項」が郡より告示されたが、産業の各分野で品評会の開催を推進している。
 社会の面での動向では、玉南鉄道の敷設と南津(なんしん)鉄道敷設計画、それに陸軍特別大演習が注目されよう。
 玉南鉄道は大正九年(一九二〇)十一月の玉南鉄道発起人総会にはじまる。すでに京王電軌鉄道は新宿から府中まで営業を行っていた。当初の予定は、甲州街道沿いに八王子まで敷設の予定であったが、資金の関係から中断されていた。それについて多摩村、七生村それに八王子の有志が、地元の村々を経由して八王子に達する路線を要望した。それに対して京王電軌は、はじめ応じなかったが、たまたま大正八年に地方鉄道法が公布され、京王電軌に有利に展開したことから地方鉄道法に沿って大正十一年七月、玉南電気鉄道の形で発足した。途中で関東大震災に遭遇したが、工事はほぼ順調に進み、大正十四年三月に東八王子・府中間が開通した。ところが地方鉄道法による補助を得ることができなかったことから、大正十五年十月、京王電軌は玉南電気鉄道を吸収合併して終了した。
 一方、大正十三年(一九二四)十二月に、由木村鑓水(八王子市)で南津電気鉄道の設立協議会が発足した。南津電気鉄道は、南多摩郡と津久井郡を結ぶところから南津と名付けられたが、多摩村一ノ宮と津久井郡川尻村(城山町)を結ぶ計画であった。発起人は沿線の由木・多摩・堺・相原・川尻の各村から出ている。昭和二年(一九二七)九月、南津電鉄の創立総会が開催され、社長にかつての多摩の自由党の重鎮林副重を選出して正式に発足した。
 ところが金融恐慌や昭和恐慌に遭遇して敷設工事は延期に延期を重ね、株主間でも解散派と存続派に分かれて激しく対立、結果的には解散派が会社役員を占め、昭和九年一月、会社解散申請書を鉄道大臣に提出した。申請は六月に許可されて南津鉄道は幻の鉄道として終わった。
 陸軍特別大演習は、大正十年(一九二一)十一月十七日から四日間行われた。多摩村ではこの陸軍特別大演習が実施されるという郡役所からの通知を七月の半ば過ぎに受けた。南多摩郡では十月六日に郡内町村の兵事主任・在郷軍人分会長・青年団長を桑都公会堂に集めて会議を開催した。席上南多摩郡長は、特別大演習で南多摩郡に御野立所が設けられて主要の地になることを「無上ノ光栄」とし、軍隊の宿営をはじめ各方面にわたり町村の協力を具体的に訴えており、町村の協力事項は三九項目にもおよんでいる。多摩村でも軍隊の「宿営力調査」をはじめ各項目ごとに万全を期した。事務委員には役場職員をはじめ区長、青年会員、在郷軍人分会員をあてている。
 大正期は教育の分野で大きな変化がみられた。背景には第一次大戦後、日本の列強への参加と地方改良運動があげられよう。多摩村では明治四十五年(一九一二)五月、学校統合で向岡・処仁・兆民の三校が廃止され、新しく多摩尋常高等小学校が設立された。大正二年には新校舎も設立され、処仁は第一分教場、兆民は第二分教場と新しい体制で発足することになった。
 新教育運動は全国的に展開して大正デモクラシーの雰囲気をただよわせている。『赤い鳥』の普及運動も広がりをみせ、多摩小学校の児童も盛んに綴方や詩を書いて発表した。教科では東京府の指導のもとに裁縫、体育、理科に力が注がれた。全般的に三多摩地域の教育は都市部と比較して「劣勢」であると新聞では報じられ、奮起が期待されていた。
 大正四年(一九一五)一月、多摩村ではやや遅れて多摩村立実業補習学校が発足した。補習学校は夜学で男子のみを対象としていたが、十二年から女子も入学を許され昼間に通学した。十四年には名称を変更して多摩村立多摩農業公民学校となった。大正十五年七月、多摩小学校で多摩村立多摩青年訓練所が新しく発足した。青年訓練所は男子青年を対象に主として軍事訓練を行うために設置された教育機関である。
 このほか十二年一月、多摩村教育会が発足した。教育会は系統的組織で、南多摩郡内町村で南多摩郡教育会がつくられ、東京府では東京府連合教育会が組織されていた。