関東大震災と復興事業

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大正九年(一九二〇)三月、それまで上昇を続けていた株価が、突然音をたてて崩れていった。〝ガラ〟と呼ばれた株価の暴落をきっかけに戦後恐慌は開始された。この恐慌が多摩村に与えた影響は「実ニ大ナルモノ」であって、すべての生産物は下落し、「別ケテモ糸価ノ暴落ハ生計ノ上ニ大ナル影響」をおよぼし、村財政にも大打撃を与えた。これに追打ちをかけたのが関東大震災であった。
 大正十二年九月一日、関東大震災が発生した。震源地は相模湾で、地震の規模はマグニチュード七・九(烈震)、震源地に近い関東南部、とりわけ東京・横浜は二次災害により人的物的に大被害を受けることになった。
 南多摩郡では神奈川県に近接している地域に被害が大きかった。それ故、多摩村は南多摩郡の中では被害は大きい方であった。報告によると多摩村の被害は、家屋全壊は、住家二七、倉庫(土蔵)一八、寺院一、神社一、納屋その他四八で、半壊もかなりの数を示していた。報告には見られないが行方不明者二人がいた。二日午後五時頃、朝鮮人暴動の流言が伝えられパニック状態になった。各地域では自警団が結成され警備にあたった。
 地震や流言飛語が鎮静に向ってから各地域では復興作業にとりかかった。母屋をはじめ家起(うちおこ)しは講中や個人で進められた。村議会では、学校や道路・橋梁・堤防の修繕について協議された。天皇からの恩賜金については、多摩村は死亡・全壊・半壊の合計で四八〇円を請求した。
 この戦後恐慌期に、関戸小作組合と落合農民組合が結成された。関戸小作組合は、大正十三年(一九二四)四月、関戸区内の小作人で組織した組合であり、落合農民組合は後の昭和四年(一九二九)四月、多摩村落合全般で組織されており、組合員は六一人で、農事改良の発達や地主・小作の協調を主眼とし生活の安定を目的としている。
 第一次大戦の戦後恐慌前後は地方改良や民力涵養が叫ばれていた時期である。その運動の結果として大正十二年五月、民情風俗に関する概況調査が実施されているが、「生活状態ノ変化」の項目で、近年時勢の進運で都会的風俗にそまり、一般の生活状態はやや困難の感があるが、最近経済思想の念が高まり過渡期にある状態のようである、と報告されている。
 大正時代、青年団は各村の柱の一つになっていた。大正四年九月、内務・文部両省は連署して訓令を発し、青年団体の適切な指導と健全な発達を地方に指示した。これを契機に全国の行政機関は青年会の組織の再編成を進めていった。南多摩郡では大正七年に各村で一つに統合し、そのもとに同年十月十七日、南多摩郡青年団発会式が八王子市で挙行された。多摩村青年会は南多摩郡の中では早く統一がなされ、各地域に支部を置いてそれぞれ活動していた。落合支会の会則をみると、男子部と女子部に分かれ、精神修養と身体の鍛練を目指し、勤倹を美風としている。大正十五年一月の「会務ノ報告」によると、年間を通じての活動では役員会をはじめ講習会、支部運動会、南部青年団運動会、多摩村青年団運動会が行事の中で目をひく。その他ガリ刷りの『落合支会会報』を発刊していた。
 大正の時代、多摩村の人たちが身をもって文化生活を体験できたのは電灯の点灯であった。多摩村に電灯が敷設されたのは大正十四年(一九二五)四月である。多摩村では電灯敷設に東京電灯株式会社と負担軽減を交渉し、費用徴収のため電灯組合がつくられ、電灯会社との間に契約がなされた。大正十五年十月、村長伊野平三は、各地区要員を集め、村内一般に点灯されたことから役場で会議を開催し、閉会後に慰労会をひらいて任務を終えた。