農村恐慌下の多摩村

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昭和四年(一九二九)十月、ニューヨークのウォール街での株の大暴落によって世界恐慌がひき起こされた。農村では、アメリカ経済の破綻(はたん)によって生糸の需要が激減、その上豊作飢饉によって米価が暴落し、農業恐慌におちいった。
 昭和六年には東京府より失業救済農山漁村臨時対策低利資金の貸付けが村を通じて転貸という形で実施され、決められた「規程」に沿って耕地拡張改良事業資金、蚕桑改良事業資金、副業及農業共同施設資金として利用された。同年十月には多摩川府道の関戸架橋について地元の運動は「猛烈を極め」た。多摩村は、富沢政賢の日記によると、五月、九月、十月と村長・助役その他が東京府に陳情をくりかえした。架橋工事に農民を労働者として就労させる努力が進められていったのである。ところが皮肉なことに関戸橋架設工事の就労登録者の数は半数にも満たなかった。理由は農繁期を迎えていたからであろう。
 昭和六年十月、東京府は貧困学齢児童就学奨励のため、生活費の一部として多摩村に一八〇円を交付した。多摩村では同年十二月に保護者二三人、児童四四人分として一一一円を支給、翌七年三月には、保護者二四人、児童四七人分として六九円を支給した。このような農村恐慌期に、多摩村の小学校では児童の急増によって校舎の増改築を迫られ、昭和七年七月、東京府に起債の許可申請をした。
 救農土木事業と並んで時局匡救事業の柱となったのは農山漁村経済更生運動であった。昭和七年十月六日、この運動の憲法とされる農林大臣訓令が布達された。南多摩郡ではこの日を経済更生記念日と定めた。
 多摩村では、昭和八年に経済更生村の指定を受け、十一項目にわたる「多摩村農村経済更生実施計画」を作成した。十一項目のうち主な項目をあげると、信用購買組合の設立、実行団体の普及活動、農業経営組織の整備、農業・副業・養蚕業の改善、生活改善に関する事項などをあげている。更生計画は、従来の一四農区を単位とする更生組合を組織し、各更生組合が村の更生計画にのっとって計画を掲げている。青年団活動もまた経済更生運動を積極的に取入れ、精神生活・経済生活・団体生活の中で実行要目、例えば「冠婚葬祭ノ質実化」「集会ノ時間励行」を目指していった。
 世界恐慌がはじまった昭和五年(一九三〇)の十一月、多摩村の連光寺に農村には珍しい壮大な近代的な西洋建築が開館した。多摩聖蹟記念館と名付けられたこの建物は、明治天皇が明治十年代に四度もこの地を狩猟・鮎漁に訪れたことを記念し、天皇の「余光拝胆ノ資ニ供シ併テ国体ノ精華ヲ発揚」することを目指し建設された。地元多摩村で建設の中心となったのは、御猟場にゆかりの深い元村長富沢政賢であった。富沢は、大正期に民力涵養運動で史跡保存が奨励されたことを契機に、御猟場を史跡として保存し、合わせて地域開発をすすめようとしていた。この構想は、御猟場が元宮内大臣の田中光顕に見いだされたことにより、実現する。田中は、富沢ら地元関係者だけでなく、沿線開発に積極的であった京王電鉄も計画に巻き込み、記念館を実現させた。
 この多摩聖蹟記念館の開館は、昭和七年からはじめられた東京緑地計画ともあいまって、多摩村に観光開発への期待をもたらす。昭和十二年(一九三七)九月には関戸橋が開通した。すでに同七年には多摩村は七生村と計って高幡不動と聖蹟記念館を結ぶ多摩丘陵に「多摩遊覧道路」の建設を計画した。農業恐慌を経験した村の指導者は、農業だけの経済だけでなく「都人士を招き風景の経済化で立つときである」と述べている。聖蹟記念館の周囲も、「縦横無尽の散歩路の開設」、「無料休憩所の設置」、「対鴎荘の利用」、「聖蹟記念館の峰続きに森林公園を設ける」などの記事が「記念館々報」付録にみられる。さらに多摩村も記念館に通じる道路の府費支弁道路編入願や道路改修願を東京府に提出し、多摩村に〝都の猟人〟を招く猟区を設置するなど観光開発に力を注いでいった。昭和十年前後のことである。