十五年戦争と戦時下の多摩村

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昭和六年(一九三一)九月、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)が発生し、満州事変へ発展して十五年戦争への発火点になった。この満州事変で、昭和八年五月には、早くも多摩村出身の小山少佐が戦死をし、村民に衝撃を与えた。昭和にはじめての戦死者を出し、多摩村では小学校の校庭において、村長が喪主を務めて村葬を実施、村民は戦争を身近に感じていった。
 村葬が行われた二か月後の八年八月には関東防空演習が実施された。期間は九日から十一日の三日間で、東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城の一府四県で実施された。灯火管制は東京より周囲一〇〇キロにおよび、国家総動員の本格的訓練が開始されたことを意味していた。
 青年団も村の行事に積極的に参加し、活発に活動を行った。講演会や講習会、小山少佐の村葬、関東防空演習への参加、さらには満州事変二周年を記念した国防思想普及映画の行事などがそのあらわれである。そのようななかにも雄弁娯楽大会や運動競技大会が盛んで、村内、郡内の競技大会が行われ、優勝祝賀会には村を挙げて喜びをわかちあっていた。
 昭和十二年(一九三七)七月七日、日中戦争の開始とともに村では兵士の動員や馬の徴発が行われ、「国民精神総動員」の戦争動員の行事が実施された。学校も総動員運動に参加し、青年団も出征兵士の送迎や戦没者の村葬に参列し役割を果たした。昭和十三年三月、綿糸配給統制をはじめとしてマッチ・砂糖・米が配給制になり生活は一段と深刻さを増していった。戦争の激化とともに、さまざまな団体が整備されていった。昭和十四年(一九三九)には消防組と防護団が一体になって警防団ができ、同年二月、多摩村でも多摩村警防団が設置された。同年十二月には多摩村銃後奉公会の規約が施行された。会則によると、村の世帯主全員が参加し、会長には村長が就任した。
 昭和十五年九月、内務省は部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱を府県に通達、これにより町内会・部落会・隣組が全国に整備された。多摩村では大字ごとに部落会が置かれ、その下に三八の班がつくられ、常会の定例日も設けられた。
 昭和十六年十月、東条英機内閣の成立によって日米関係は破局を迎え、十二月八日太平洋戦争へと突入していった。日本は先制攻撃で緒戦に勝利したが、十七年六月のミッドウェー海戦を転機に守勢に転じていった。その年の一月、大日本翼賛壮年団が結成された。翼賛壮年団は大政翼賛会の実践部隊で、多摩村にも十七年三月に多摩村翼賛壮年団が結成された。十八年八月には「多摩村参与条例」が成立し、村行政は六人の参与が審議し村長が「統裁」(最高責任者として物事を処理すること)した。村長の「統裁」について異議・違反行動を禁じ、村行政においても翼賛化が進められていった。
 戦争の熾烈化で多摩村でも戦死者が増加していった。昭和十七年四月、「戦時下陸海軍人病死者ノ葬儀ニ関スル件」が決まり、「病死者」は村葬から部落葬に変わった。十九年に入ると三月には金属の供出で聖蹟記念館の創設者田中光顕の銅像も供出され、九月には在郷軍人会多摩村分会によって防衛隊が編成されるまでに事態は切迫していた。
 村の状況も変わっていった。一般に「多摩火工廠」と呼ばれていた東京第二陸軍造兵廠多摩火薬製造所は、昭和十二年(一九三七)火工廠板橋火薬製造所多摩分工場として稲城村(稲城市)に建設が着手され、翌十三年十一月に操業が開始された。さらに十四年十月には火工廠多摩火薬製造所として独立した製造所に昇格した(『稲城市史』下巻)。
 工場は稲城村から西に伸びて火工廠第三・第四工場は多摩村に建設された。その土地買収は十三年から開始されており、十七年頃まで続いた。戦争末期になると壮年までも徴兵され、その結果、軍需工場は労働力不足となり、火工廠でも大学生や中学生、女学生を受入れていた。
 多摩村は戦車道路の予定地にもなっていた。戦車道路とは相模陸軍造兵廠が製造する戦車の性能テストコースである。戦車道路は昭和十八年につくられたがその延長予定地が多摩村にかかり、十八年に用地買収が進められていた。
 教育でも軍国主義化が進んだ。昭和十年四月、青年学校令が公布され、青年学校が設立されたことである。青年学校は、それまでの実業補習学校と青年訓練所を統合して新しくできた学校制度で、実生活に役立つ学習と同時に訓練(教練)を行い、教練に主力が置かれていた。多摩村においても農業公民学校(大正十三年、実業補習学校を改称)と青年訓練所を統合して青年学校を発足させ、軍事的色彩を鮮明にしていった。
 小学校の教育もすべて軍国主義一色に塗りつぶされていた。昭和十七年十月に行われた「秋季体錬会番組」(運動会のこと)の「演技」種目は、手旗体操、空中戦、赤十字、三国同盟、飛翔訓練、閲団分列、増産競争、防火競争、進め軍艦旗、大東亜決戦の歌などで埋まっている(『多摩町誌』)。
 昭和二十年にはいると米軍機による空襲で警戒警報や空襲警報がひんぱんに発令され、その都度学校での授業は中断あるいは休校となった。高等科の生徒は、授業よりも勤労奉仕が主体で、開墾、松根油採取、薪運搬、防空壕掘りに従事した。そのような中に都内から集団疎開児童の村への受入れが行われた。学校の校庭では多摩村防衛隊の訓練も実施されていた。三月二十一日には、多摩村の象徴ともいうべき聖蹟記念館が閉館した。八月二日にはB29の空襲で近傍の八王子市は灰燼に帰し、村びとは、本土決戦を覚悟してあの八月十五日の「玉音放送」を迎えたのである。
(沼謙吉)