幕府と討幕派勢力との争いは、大政奉還と王政復古により幕府が消滅したことでは収束しなかった。薩摩・長州両藩を中心とする成立したばかりの新政権は、あくまでも幕府勢力の一掃を目指し、両者の対立は慶応四年(一八六八)に入ると軍事的衝突へと発展した。一月三日の鳥羽・伏見の戦いから明治二年(一八六九)五月の箱館五稜郭の戦いまで続くこの戦いは、慶応四年(九月に明治と改元)の干支にちなんで戊辰戦争と呼ばれる。多摩の人々は、戊辰戦争による混乱のなかで新しい時代を迎えることとなった。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に勝利をおさめると、新政府は東海道・東山道・北陸道・山陰道の各鎮撫総督にそれぞれ橋本実梁・岩倉具定・高倉永祜・西園寺公望を任命し、徳川慶喜追討の兵を東へと進めた。
こうした動きは、遠く離れた多摩の村々にも影響を与えた。戦争勃発の情報がいつ届いたか明らかではないが、連光寺村の名主で、日野宿組合の大惣代も務める富沢忠右衛門の日記(忠右衛門すなわち富沢政恕はのちの多摩村長富沢政賢の父でもあり、この日記は多摩市域の歴史全般が記された重要な史料である。なお本巻の口絵にも掲げたように、日記には一冊ごとに表題がつけられているが、本書のなかでは「富沢日記」と総称する。)には、一月十五日夜に薩摩藩士の罪状を記した触書を高札場へ掲げたことが書かれている。おそらく鳥羽・伏見の戦いの情報を得て、幕府の立場から新政府の中心である薩摩藩への不信感を表明したものであろう。
新政府の正当性への疑念はこのあとにもみられる。四月には、江戸の関門に掲示された張り紙の内容が連光寺村にも伝えられた(資三―3)。そのなかでは、徳川将軍家が朝廷に対して恭順を示しているのは明らかであるにもかかわらず、「姦臣」が幼い天皇を担ぎ、追討の命令を下したのは「不義」だとしている。そして「不義不道」な薩長に対抗する会津藩を支持する動きが広がっていることを述べている。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を敗ったとはいうものの、この頃はまだ新政府の威信は確立していなかったのである。東北と越後では反政府勢力が結集を進め、欧米諸列強も新政府に明白な支持を示すことを避け、局外中立という立場から戦争を静観する方針をとっていた。さらに、外国人が発行した新聞のなかには、反政府勢力を支持する意見もみられた。当然「将軍のお膝元」江戸においても、旧幕府のなかの抗戦派たちが官軍を迎え討つ準備を進めていた。こうした状況のなかで、多摩の人々も討幕による政権交代を複雑な気持ちで受けとめていたのである。
ところで、戦争の勃発は幕末以来の不穏状況を加速化し、多摩市域の村々も治安維持にいっそうの力を注ぐことになった。とくに一ノ宮渡船場の見張場には、一月十七日から警護のための人足が詰めるようになり、連光寺村には四人の人足が割り当てられた。さらに、二月六日には北方から兵士風の者たち四〇〇人が押しかけるとの風聞を聞いて、一ノ宮渡船場から船を引き上げた。二月十日頃には一部の兵が甲府まで達し、多摩地域にも戦乱の兆候が現れはじめていた。