官軍の通行

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鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、すぐに江戸に戻り、二月十二日には絶対恭順を表明して、上野の寛永寺大慈院で謹慎生活に入った。その間、新政府は三月十五日を江戸総攻撃の期日に決め、東海道先鋒総督府軍は、三月十一日に先鋒の薩摩藩兵が川崎宿から多摩川を渡り江戸に入った(『川崎市史』通史編3)。しかし、三月十三・十四の両日、旧幕府側の勝安芳(海舟)と官軍の参謀格西郷隆盛(薩摩藩士)との会談が行われ、江戸総攻撃の中止が決められた。これを受け、四月十一日、江戸城が官軍に明け渡されたが、これに納得しない旧幕臣たちはなおも抵抗を続けた。
 この間、多摩の村々では、官軍の通行による負担の増大に悩まされていた。まず三月五日に多摩郡の南部や都筑郡の村々に官軍への人馬の差し出しが命じられた(『町田市史』下巻)。これが官軍側からの最初の指令だと思われる。続いて三月二十一日夜には一ノ宮村に官軍の先鋒を務める尾張藩士が早駕籠で訪れ、渡船の使用を要求している。それに対し、一ノ宮村では尾張藩の役人あてに請書を提出し、村役人が通行する船を厳重に取り調べ、官軍の渡船に支障が出ないよう取りはからうことを誓った(資三―2)。
 官軍の通行は人馬輸送の負担にもつながっていく。多摩市域の村々は、江戸時代、日野宿の定助郷をつとめていたが、それに加え、官軍の通行による交通量の増大のため、日野宿の増助郷として、百石につき人足五人ずつ差し出すことを命じられた(資三―1)。ちなみに助郷とは、宿場で人馬をまかないきれない際に、宿場周辺の村々に人馬を負担させる課役で、定期的に行うものを定助郷、臨時に行うものを増助郷・加助郷などといった。多摩市域の場合、日野宿の定助郷をつとめているうえに、さらに臨時の助郷を課せられたのである。それだけではなく、三月二十五日、官軍の先鋒をつとめる鳥取藩から、官軍が通行する際には速やかに人足などを差し出すよう改めて念を押されていた。こうした負担は甲州道中に関するものばかりでなく、官軍の通行が活発化してくると、東海道の宿村に関する助郷まで負うことになる。
 しかし、官軍からの要求を沿道の村々は無条件で受け入れていたわけではない。市域八か村を含む多摩地域二一か村の村役人たちは、三月十一日、官軍の御用御賄方をつとめる江川太郎左衛門らに対し嘆願書を提出している(富沢政宏家文書)。それによれば、官軍の通行にともない、東海道筋の藤沢宿から神奈川宿までの警衛、さらに兵糧の確保や人馬継ぎ立てなどを命じられたが、この二一か村はもともと日野宿の定助郷をつとめており、現在も甲州街道を江戸にむかう鳥取藩・土佐藩の人馬継ぎ立てに昼夜を問わず携わっているため、神奈川宿の助郷は引き受けられない、と願い出ていた。この要求はいったん聞き入れられるが、四月に入ると、再びこの二一か村に神奈川宿の助郷負担が課せられる。ただし、今度は人足を差し出すのではなく、四月五日までに村高一〇〇石ごとに金三両を納めることを要求された。これに対しても、村々は免除を願い出ているが、結局一〇〇石につき金一両ずつ集め、四月七日、関戸村などの役人が神奈川宿に届けたようである(富沢政宏家文書)。
 一方、四月中旬には日野宿組合四四か村に御用金の提出が命じられていた。すなわち、村高一〇〇石につき白米三俵と金三両ずつ四月末日までに品川宿へ提出せよ、というのである。日野宿組合の大惣代富沢忠右衛門は、各村ごとに割り当てを決めている(資三―4)。そのなかから、市域の八か村を抜き出して一覧表にしたものが表1―1―1である。このように江戸周辺の村々は、官軍=新政府の到来を負担の増大とともに迎えたのである。そして負担を受け入れると同時に、江戸周辺の村々は新政府の権威をも少しずつ受け入れることになった。
表1―1―1 官軍御用途米金一覧
白米
斗升合勺才 分朱 分厘
和田村 11俵00384 11両00 9文58
落合村 12俵15191 12両12 4文77
乞田村 10俵30696 10両30 17文39
一宮村 10俵30066 10両30 1文64
寺方村 1俵35526 1両32 13文14
貝取村 4俵12736 4両11 5文88
関戸村 17俵22748 7両21 6文19
連光寺村 8俵07190 8両02 54文74
「資料編三」No.4より作成。