寄場組合の対応

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江戸城が明け渡され、江戸に新政府の拠点ができたあとも、戦乱は終わらなかった。脱走した旧幕臣の一部は上野の山に立てこもり、五月十五日には官軍との戦闘へ発展する。こうした状況のなか、多摩の村々の治安維持態勢も緩むことはなかった。これより先、多摩地域の幕府直轄領では、幕末期、代官江川太郎左衛門の建議によって農兵が設置されていた。その人数は日野宿組合全体で農兵三九人、手代三九人が予定されていた。また、関東取締出役からの指令で寄場組合(改革組合村)でも農兵の取り立てが行われ、慶応二年(一八六六)までに日野宿組合で一〇九〇人、市域では連光寺村で四二人の農兵が設置されたことがわかっている(通一―1012~1013頁)。
 これらの農兵組織は、戊辰戦争期にも機能していた。たとえば、三月から四月にかけて、多摩郡勝楽寺村(所沢市)で博徒が集まり、近隣の村々に酒食を要求するなどしたとき、事態の沈静化に貢献したのは所沢組合の農兵であった(『所沢市史』下巻)。また、多摩市域の近隣では小野路村組合の農兵が、一月から三月の間、活発に訓練を重ねていたという(『稲城市史』下巻)。残念ながら、多摩市域では農兵の活動を示す史料は見出せないが、戦乱から郷土を守るためにさまざまな方策をとっていたはずである。そのひとつとして、日野宿組合が取締りのための議定書を作成していたことがあげられる(資三―6、図1―1―1)。

図1―1―1 組合非常取締方議定書

 議定書は冒頭で、近頃悪徒や強盗が官軍または脱走諸隊だと名乗り、博徒などを集めて窃盗などを行っているため、農民たちは安心して農業に従事できず、このままでは生活できない者も出てくる、という状況を記している。そして最悪の事態を避けるために、組合で協議した結果、悪徒が現れたときは各村から人数を出し、もし抵抗された場合は討ち取り、代官などへ届け出ることを決めたというのである。その次に、悪徒が現れた場合の取り決めが列挙されているが、そのなかから主なものを箇条書きで示してみよう。
1 悪徒をみつけたら、法螺貝・太鼓・半鐘などを打ち鳴らして合図し、それを聞いた村は人数を繰り出すこと。

2 悪徒と見まちがえないように、日野宿組合の目印を付けた鉢巻をし、夜は村名を記した高張提灯をかかげ、悪徒に出会ったときは鳴り物を鳴らしながら打ちかかること。

3 悪徒を打ち倒した者には褒美金、戦闘で負傷した者や死亡した者の家族には手当金を与える。

4 無礼な振る舞いをすることは慎むこと。

5 喧嘩や口論をした者は理非にかかわらず双方を捕らえ、村役人から叱り置くこと。

6 自己の恨みから他人を傷つけることを禁止する。

7 合図があった際、仮病を使って出動しなかった者からは罰金を取る。

 これらの条項から、村びとが自分たちの手によって村を守ろうする姿勢が読み取れよう。さらに注目すべきことは、多くの部分で組織としての規律を重要視している点である。郷土の危機を目の前にして、一致して事に当たろうとしている。多摩市域では幸いこの議定書に書いてあることが現実になったことはなかったようであるが、村びとたちは極度の緊張状態のなかで毎日を過ごしていたに違いない。