脱走諸隊と多摩地域

26 ~ 27
抗戦派の旧幕臣たちのなかには上野に立てこもった者ばかりでなく、脱走して各地へちらばり、官軍への抵抗を続ける者もいた。たとえば、元歩兵奉行大鳥圭介は二〇〇を超える兵を率い、下総国国府台(千葉県市川市)からゲリラ活動を行いながら北上し、四月十九日に宇都宮を占領した。一方、海軍副総裁榎本武揚は四月十一日夜、七艘の軍艦を率いて脱走し、江戸湾から戦況をみつめていた。
 多摩市域においては、脱走諸隊が活発な活動を行うことはほとんどなく、その影響は金銭の要求として現れた。連光寺村にその知らせが来たのは、五月三日であった。日野宿からの廻状には、田無村に集結している振武軍から、組合ごとに二、三人ずつ派遣するよう命じられたと記されている。日野宿組合では浅川の南北の村々から一人ずつ派遣することとし、南側の村からは中和田村名主石坂戸一郎が田無村に行くことになった。
 ところで、振武軍とは彰義隊から分かれた隊で、渋沢成一郎(渋沢栄一の従弟)を隊長として、三〇〇人余の隊員によって構成されていた。彼らは江戸を脱し、五月一日に田無村へ入って金策を行っていた。振武軍は田無村に集まった各組合の代表に対し、富裕者から軍用金を徴収することを告げ、その名簿を差し出すよう命じた。日野宿組合のなかで、献金を課された者を示せば表1―1―2のようになる。いずれも要求金額よりかなり少ない額で済んでいるが、それでも田無村・拝島村・扇町谷・日野宿・府中宿各組合あわせて、三四〇〇~三五〇〇両の出金となっている(『所沢市史』下巻)。振武軍は結局、五月二十三日の飯能戦争で官軍に敗れ、多摩地域での戦乱は収束していくことになる。が、脱走諸隊は多摩の人々に重い負担を残していった。
表1―1―2 振武軍への献金一覧
村名 名前 要求額 差出額
日野宿 太助ほか7人 500両 150両
中神村 久治郎 1000両 150両
三沢村 篠三郎 100両 20両
豊田村 清之助 18両3分
上柚木村 孫右衛門 18両3分
連光寺村 奥右衛門 18両3分
堀之内村 藤蔵 18両3分
貝取村 平蔵 11人で500両 14両1朱
百草村 清左衛門 14両1朱
柴崎村 元右衛門 9両1分2朱
越野村 永助 9両1分2朱
石川村 直右衛門 9両1分2朱
中野村 重蔵 9両1分2朱
中神村 弥八 9両1分2朱
「資料編三」No.5より作成。