多摩市域においては、脱走諸隊が活発な活動を行うことはほとんどなく、その影響は金銭の要求として現れた。連光寺村にその知らせが来たのは、五月三日であった。日野宿からの廻状には、田無村に集結している振武軍から、組合ごとに二、三人ずつ派遣するよう命じられたと記されている。日野宿組合では浅川の南北の村々から一人ずつ派遣することとし、南側の村からは中和田村名主石坂戸一郎が田無村に行くことになった。
ところで、振武軍とは彰義隊から分かれた隊で、渋沢成一郎(渋沢栄一の従弟)を隊長として、三〇〇人余の隊員によって構成されていた。彼らは江戸を脱し、五月一日に田無村へ入って金策を行っていた。振武軍は田無村に集まった各組合の代表に対し、富裕者から軍用金を徴収することを告げ、その名簿を差し出すよう命じた。日野宿組合のなかで、献金を課された者を示せば表1―1―2のようになる。いずれも要求金額よりかなり少ない額で済んでいるが、それでも田無村・拝島村・扇町谷・日野宿・府中宿各組合あわせて、三四〇〇~三五〇〇両の出金となっている(『所沢市史』下巻)。振武軍は結局、五月二十三日の飯能戦争で官軍に敗れ、多摩地域での戦乱は収束していくことになる。が、脱走諸隊は多摩の人々に重い負担を残していった。
村名 | 名前 | 要求額 | 差出額 |
日野宿 | 太助ほか7人 | 500両 | 150両 |
中神村 | 久治郎 | 1000両 | 150両 |
三沢村 | 篠三郎 | 100両 | 20両 |
豊田村 | 清之助 | 18両3分 | |
上柚木村 | 孫右衛門 | 18両3分 | |
連光寺村 | 奥右衛門 | 18両3分 | |
堀之内村 | 藤蔵 | 18両3分 | |
貝取村 | 平蔵 | 11人で500両 | 14両1朱 |
百草村 | 清左衛門 | 14両1朱 | |
柴崎村 | 元右衛門 | 9両1分2朱 | |
越野村 | 永助 | 9両1分2朱 | |
石川村 | 直右衛門 | 9両1分2朱 | |
中野村 | 重蔵 | 9両1分2朱 | |
中神村 | 弥八 | 9両1分2朱 | |