旗本たちの動向

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多摩市域は江戸時代、幕府直轄領・旗本領・寺社領によって構成されていた。このうち幕府直轄領は代官江川太郎左衛門が、旗本領は九人の旗本が分割支配していた。しかも、表1―1―3に示したように、幕府直轄領と旗本領が複雑に入り組んだ錯綜支配となっていた。そして戊辰戦争での幕府軍の敗北は、多摩の村々を支配する代官と旗本たちの去就に大きな影響を与えることになった。
表1―1―3 多摩市域の支配関係
村名 領主名 石高
石   
和田村 和田伝十郎 267.8830
浅井小右衛門 99.1130
山角錤三郎 68.8490
高蔵院領 5.0000
落合村 松平鉄次郎 293.7950
曾我七兵衛 124.5764
白山社領 10.0000
乞田村 曾我七兵衛 358.9730
吉祥院領 10.0000
一之宮村 江川太郎左衛門 28.9380
桑島孫六郎 187.2070
中山鎌八郎 131.8200
曾我七兵衛 43.8800
小野神社領 15.0000
寺方村 山角錤三郎 141.4968
浅井小右衛門 29.3436
曾我七兵衛 33.5975
寿徳寺領 7.0000
貝取村 松平晋之丞 148.0413
地蔵領 5.5000
関戸村 江川太郎左衛門 85.6230
山角錤三郎 198.0420
連光寺村 江川太郎左衛門 64.0580
天野滝之助 258.6566
木村礎校訂『旧高旧領取調帳 関東編』より作成。

 新政府は鳥羽・伏見の戦いに勝利すると、幕府直轄領をすべて政府が接収すると宣言した。しかし、幕領を支配していた代官を解任したわけではなく、当分、従来の管轄地にとどめる方針をとっていた。一方、旗本たちは新政府の官員(朝臣)になるか、あくまでも徳川家に従うか、または武士をやめ農民や商人になるか、という三つの選択肢があった。政府自身は旧幕臣の朝臣化を進め、五月三日に徳川方に朝臣採用の布達が伝えられ、朝臣希望者の調査が開始された。明治二年(一八六九)十一月時点で、約五〇〇〇人の旧幕臣が朝臣となっていたことがわかっている(原口清『明治前期地方政治史研究』上)。次に徳川家にしたがって静岡に移住する場合をみてみると、周知のように、徳川家はすべての領地を召し上げられ、新たに駿河府中藩(のち静岡藩と改称)七〇万石を与えられた。藩主には徳川慶喜の跡を継いだ徳川家達が任命され、七月頃から静岡への移住が開始された。藩主家達は八月九日に江戸を発ち、同月十五日に駿府に到着した。多くの藩士も海路と陸路双方からこれに続いた。静岡に移住した旧幕臣の人数は、慶応四年八月に政府へ提出した名簿「駿河表召連候家来姓名」(国立公文書館内閣文庫蔵)には約二五〇〇人の名が記されている。しかし、当然ここには明治二、三年に移住した人々は含まれておらず、またここに記されていながら移住しなかった者もいて、移住者の正確な総数を算出するのはきわめてむずかしい。多摩市域を支配した旗本たちのうち、「駿河表召連候家来姓名」に名前の記載があるのは中山鎌八郎のみであるが、「富沢日記」には、明治三年一月二十六日に旗本天野氏から駿河移住について相談を受けたことが記されている。その後の記載のなかでも、天野氏が実際に駿河へ移住したことがみえる(富沢政宏家文書)。
 静岡に移住するにせよ、朝臣になるにせよ、旗本たちは経済的に苦境に陥ることが予想された。そのため、彼らは新政府に年貢徴収権を奪われる前に、領地の村々から年貢を納めさせた。天野氏の場合、連光寺村から金一九五両三分、銭三五文を徴収した。連光寺村はこれを納めたものの、神奈川県が成立すると、明治元年十二月にその返還を求めた(資三―8)。同様のことはほかの村でも起きていたに違いない。
 経済的に苦しかったのは旗本の家臣も同じで、曾我七兵衛の家臣松田次郎左衛門は、明治二年五月、落合村の有山文平に手紙を送り、金策を頼んでいる(資二(1)59)。その手紙のなかでは、凧を売ったり子供に勉強を教えたりして、生計を立てようとしたがうまくいかないなど、明治初年の武士の生活が具体的に記され興味深い。旧領主と知行所の村々との関わりは、経済的な問題も含め、幕府滅亡後に引き継がれていたのである。