神奈川県の誕生

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慶応四年(一八六八)五月十五日、新政府は江戸に江戸鎮台を置き、幕府の支配機構である町奉行所を市政裁判所、寺社奉行所を寺社裁判所、勘定奉行所を民政裁判所と改めた。また、江戸周辺の代官支配地には武蔵国知県事を置き、代官の桑山圭助・松村忠四郎らを知県事に任命した。七月十七日には江戸は東京と改められ、新たな時代の到来が印象づけられた。
 一方、開港場横浜を中心とする地域は、江戸時代、神奈川奉行によって支配されていたが、三月十九日、新政府は東久世通禧を横浜裁判所総督に任じ、横浜に派遣した。四月十七日、横浜に到着した東久世は、二十日に神奈川奉行が管轄していた建物や書類を引き継ぎ、神奈川裁判所を設置し、開港場支配を開始した。そして神奈川裁判所は六月十七日、神奈川府と改称され、さらに九月二十一日に神奈川県となった。知事には東久世に代って寺島宗則(薩摩藩士)が任命された。
 多摩地域は当初神奈川県に属した。それは神奈川県が開港場を抱えていることと無関係ではない。安政五か国条約により開港場から十里四方は外国人の遊歩地域とされ、江戸時代、横浜を囲む十里四方は神奈川奉行の管轄とされていた。そして神奈川奉行から行政事務を引き継いだ神奈川裁判所は、さらに六月十二日、神奈川奉行の支配地と同様、横浜十里四方を支配地域とするよう江戸鎮台に願い出た。これに対し、鎮将府(七月十七日鎮台を改称)は八月二十五日、その願いを認めることを神奈川府へ達した。神奈川府は神奈川奉行と異なり、外国人関係事項のみでなく、十里四方の直接支配を要求していたが、これは廃藩置県後に実現される。
 神奈川府は八月晦日、管内の寄場宿村へこの旨を伝え、各組合に周知させた(石阪好文家文書)。こうして外国人遊歩地域に含まれる多摩地域は、明治二十六年(一八九三)に東京府へ移管されるまで、神奈川県に属することになったのである。しかしながら、多摩市域に残る史料をみると、神奈川県が成立したとはいえ、神奈川県名で出された法令が現れるのは十二月に入ってからである。それまでは武蔵国知県事の古賀一平役所(明治二年二月に品川県となる)の名で法令が伝えられることが多く、新しい管轄区域を示す傍示杭の雛形(図1―1―2)も九月二十日に古賀一平役所から届けられた(石阪好文家文書)。権力の移行にともなう事務の引き継ぎが末端の村々に届くまでには多くの時間が必要だった。

図1―1―2 傍示杭の雛形