多摩の村々の助郷負担は、戦場が関東以北に移ったあともけっして軽減されなかった。なぜなら、旧幕臣たちが静岡藩へ移住するため、東海道を西に向かっていたからである。東海道の交通量増大により、政府は甲州街道の定助郷を担っていた村を東海道の定助郷へ組み替えることとした。しかし、戊辰戦争期と同様、村々はその対応に動揺を見せた。和田村を例にその過程を追ってみよう。
石阪好文家文書によれば、明治二年(一八六九)三月五日、助郷の組み替えにともない、これまで定助郷以外の宿場で助郷を勤めた村などがあれば申し出るようにとの、神奈川県裁判所から廻状が届けられた。そして四月二十六日、日野宿の問屋から、今般改めて助郷を命じられ相談することもあるので、印鑑を持参のうえ、二十八日に日野宿へ集まるようにとの連絡が届いた。おそらく、このときの集会で組合の村々に対し、日野宿から神奈川宿への助郷組み替えが告げられたのだろう。これを経て、五月に入ると、和田村は続けて神奈川県の駅逓役所などに対し、何通かの嘆願書を提出している。まず五月十七日、助郷組み替えにともない、上(あげ)和田村・中和田村を一村扱いとして、日野宿付属にされたことを感謝し、以後変更がないことを望んでいた。ところが、そのあとの嘆願書(日付不明)では、神奈川宿付属を命じられたことが述べられる。しかし和田村は古来より日野宿の定助郷を勤めてきており、ここで神奈川宿の助郷を引き受けると二重に役をつとめることにもなり兼ねず、神奈川宿の方は免除されるよう求めていた。日野宿が直線距離にして約五キロメートルなのに対して、神奈川宿へは約二五キロメートルもの距離があり、神奈川宿付属となれば負担が増大することは明らかであった。にもかかわらず、次の嘆願書では一転して助郷の組み替えを願い出ている。すなわち、先の嘆願は改革の主旨を理解せず、一時の心得違いによって書いたものだとして取り消し、改めて神奈川宿付属を嘆願したのである。
これ以降、神奈川県と和田村の間でどういうやり取りがあったかわからないが、明治三年三月提出の和田村明細帳の下書きによれば、助郷は日野宿付属とされており、神奈川宿付属という指令は撤回されたようである。
この短い期間に、県からの指令も、それを受け取る村の態度もめまぐるしく変わっている点に、新政権誕生期の政治的混乱をかいま見ることができる。また、最終的には受け入れたとはいえ、助郷の組み替えによる負担の増大に対しては、村に暮らす人々の根強い抵抗があったのである。
宿場とその周辺の村々に大きな負担を強いた助郷は、明治五年(一八七二)八月、宿駅制度とともに廃止された。これは、明治二年一月の関所廃止などに続く、維新政府の交通制度改革の一環であった。これ以降は新たに設置された陸運会社が陸上輸送の任を担うことになった。