相給村の廃止

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すでに触れたように、多摩市域の村々は、一つの村を複数の領主が支配する相給村であった。しかし、神奈川県による一元的支配が実現すると、神奈川県は、一つの村に複数の村役人がいる相給村に対し、村役人を精選し一村に一人の村役人とするよう命じた。それにより、村入用も減らそうというのが改革の主旨であった。和田村の場合、次のように新しい村役人が選ばれた。
 和田村は江戸時代、和田伝十郎・浅井小右衛門・山角錤三郎という三人の旗本が支配しており、それぞれ上和田村・中和田村・関戸並木と称していた。これを一村にまとめることとなり、各村の名主三人は、明治二年(一八六九)七月、年貢取り立てを担当する神奈川県の官員森田鎗三郎らに、それを了承したことを告げるとともに、いままで領主ごとに検地を行い、年貢高も異なるため、一村にまとめたあとも上組・中組・下組として、三つの地区の別を残してほしいと願い出ていた。そして同年十二月、話し合いで中組名主の戸一郎に和田村の名主をまかせることに決まったが、戸一郎が重病になったため、彼が全快するまで入札で組頭を三人選び、彼らによって村政を運営することに決まった。最終的には、明治三年(一八七〇)三月、表1―1―4のように新たな役人体制が整った。すなわち、かつて十一人いた村役人を三人に減らし、入札で選ばれた新たな組頭が年番で名主をつとめることになったのである。
表1―1―4 和田村の新旧村役人
名前 新役職 旧役職
久蔵 組頭 なし
弥兵衛 組頭 組頭
浅次郎 組頭 組頭
源次郎 なし 名主
弥左衛門 なし 名主
戸一郎 なし 名主
清兵衛 なし 組頭
栄次郎 なし 組頭
七左衛門 なし 組頭
藤右衛門 なし 組頭
清左衛門 なし 組頭
冨治郎 なし 年寄
石阪好文家文書「役入願」(明治3年)より作成。
注)年番名主は久蔵。


図1―1―3 新村役人選出の入札

 こうした動きはむろん和田村だけでなく、ほかの村でも村役人の精選を進め、同年十二月には日野宿組合の新たな村役人が確定した。そのなかから市域の八か村を示したものが表1―1―5である。たとえば落合村でも、松平鉄次郎と曾我七兵衛の二人の旗本によって支配され、それぞれ名主・組頭・百姓代がいたが、年寄三人にまとめられ、年番で名主をつとめている。ただし、村役人の顔ぶれが一新されたわけではなく、むしろ旧来の村役人がそのまま村政を受け継いでいる例の方が多いと思われる。また、寄場組合も存続されていることから、神奈川県は当初、支配の根幹を変えようという意図はなかったといってよいだろう。
表1―1―5 市域8か村の村役人(明治3年12月)
村名 役職 名前
和田村 組頭 柚木久蔵
組頭 柚木浅治郎
組頭 青木弥兵衛
落合村 年寄 寺沢喜惣次
年寄 小泉平兵衛
年寄 横倉十右衛門
乞田村 名主 有山勝次郎
年寄 佐伯岩治郎
年寄 有山十七蔵
寺方村 名主 佐伯善四郎
組頭 杉田幡治郎
一之宮村 組頭 佐伯平兵衛
組頭 新田磯右衛門
組頭 佐伯斉兵衛
貝取村 名主 伊野平蔵
組頭 岸傳左衛門
関戸村 名主 小山政五郎
組頭 藤井庫太郎
連光寺村 名主 富沢忠右衛門
年寄 富沢奥右衛門
年寄 小金忠五郎
「資料編三」No.16より作成。
注)史料には朱筆などで訂正されたあとがあるが、ここでは訂正前の氏名を記した。