戸籍区の編成

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神奈川県は明治三年に入ると、管轄地域の村々の概況を把握するため、各村に村明細帳などの基本台帳の提出を求めた。その一環として、明治三年十月には戸籍編成を指令し、十二月には各村で戸籍が作成されたが、その編成方法は従来通り身分別に行われていた。しかし維新の変革は、村に暮らす人々の身分のあり方にも及んだ。まず、明治三年九月十九日、政府は平民の苗字使用を認めた。江戸時代、苗字の使用を許されていたのは、村役人や豪農などごく一部に限られていた。政府は、身分制度を支配の根幹に置いていた幕藩体制と異なり、四民平等を標榜することを人々に印象づけようとしたのである。
 そうした方針は戸籍の編成にも現れていた。明治四年(一八七一)四月四日、政府は戸籍法を公布した。この法律は、江戸時代以来続いていた身分別の戸籍編成を廃止し、住民を身分に関係なく、住居地にしたがい一戸ごとに把握することを目的としていた。この法律は明治五年二月一日の施行とされていたため、その年の干支にちなんで、このとき作られた戸籍は「壬申戸籍」と呼ばれる。
 さらに戸籍法の施行にともない、村落支配体制にも変更が加えられることになった。すなわち、寄場組合を廃止し、数か町村ごとに区を設け、そこに戸籍事務を担当する役人として、戸長と副戸長を置くことにしたのである。これにより、神奈川県は武蔵国四郡を四〇区、相模国を二四区に分けたが、日野宿組合の村々の大部分は第三二区に属した。第三二区はさらに八つの小区に分けられ、浅川を境に第一~五区を南区、第六~八区を北区と称した。市域八か村はいずれも南区となり、連光寺・寺方・関戸・貝取・一ノ宮の五か村は第一小区に、乞田・和田・落合の三か村は百草村(日野市)とともに第二小区を構成した。
 第三二区の戸長・副戸長は話し合いによって決められ、明治四年七月に神奈川県に報告している。それをまとめたのが表1―1―6である。戸長は二人置かれ、連光寺村の大惣代名主富沢忠右衛門と日野宿の寄場名主見習佐藤隆之助がつとめた。副戸長は七人、そのうち五人は日野宿組合の小惣代がつとめている(資三―17)。寄場組合が廃止されたとはいえ、戸籍区の編成は寄場組合を基礎に行われていたのである。
表1―1―6 第32区の戸長と副戸長
役職 村名 氏名 備考
戸長 連光寺村 富澤忠右衛門 惣代名主
日野宿 佐藤隆之助 寄場名主見習
副戸長 堀之内村 鈴木與之助 小惣代名主
三沢村 土方浅右衛門 小惣代名主
下田村 追沼権五郎 小惣代名主
松木村 井草市郎右衛門 小惣代名主
石田村 土方直次郎 小惣代名主
粟須村 井上忠左衛門 名主
関戸村 井上惣兵衛 名主
「資料編三」No.17より作成。