まず、産業をみると、米と大麦・小麦の生産を中心とし、ほかに大豆・小豆・蕎麦などがあげられている。同時に養蚕も行っていることが特記され、養蚕地帯として発展していく兆しがみえる。これ以外に木綿・絹・麻などの生産はないと記載されている。主な生産物に関して各村にほとんど違いはない。また、農閑期に行っている仕事として、貝取村では男は炭焼き、女は炭俵の糸取りが、和田村では男は肥取りと薪取り、女は自分用の木綿の機織りと賃糸と記載されている。このうち肥取りとは肥料に用いる屎尿の汲み取り、賃糸とは繭から糸を引き手間賃をもらう仕事である。乞田村では、男女とも縄をなうのと肥取りがあげられている。炭焼き・薪取りなどは山がちな地域に特徴的な農間余業であるといえる。
次に貝取村と和田村の職業別戸数をまとめれば、表1―1―7のようになる。農業の上中下の定義が明らかではないが、両村とも高三〇石以上の農民がいないことから、大部分が中下層農民だったといってもよいだろう。ちなみに、最大の高持ちは、貝取村では組頭の伝左衛門で一三石八斗九升余、和田村では名主柚木久蔵で二三石三斗六升余である。商人・職人については、両村ともそれを専業としている者は存在せず、農間余業にすぎなかった。ここからも農村地帯としての特徴が確認できる。
貝取村 | 和田村 | |
農業 | 40戸 | 51戸 |
うち上 | 2 | 10 |
うち中 | 3 | 11 |
うち下 | 35 | 29 |
商業 | 0 | 0 |
(農間商) | (5) | |
工 | 0 | 0 |
(農間工) | (4) |
貝取村は「資料編二」No.75、和田村は「武蔵国多摩郡和田村明細帳」(柚木幹夫家文書)より作成した。 注)1 貝取村の農間商と農間工は原文では抹消されている。 2 和田村の農業は内訳と合計が合わないが、原文通り記した。 |
また、人口は貝取村が二三七人(男一二二人・女一一五人)で、このうち四人が他所へ出稼ぎに出ている。このほか他所から八人が奉公人として住んでいる。和田村は二五一人(男一三四人・女一一六人―原文通り)で、このうち一〇人が出稼ぎ、九人が他所から来ている。参考までに、市域八か村について、明治三年と五年の人口と戸数を示した(表1―1―8)。この二年間では、大部分の村は戸数・人口とも大きな変化を示していないが、そのなかで目を引くのは連光寺村の戸数の変化である。人口にほとんど変化がないにもかかわらず、戸数が四四戸も増えている。
明治3年 | 明治5年 | |
和田村 | 49戸(1戸) | 48戸(2戸) |
436石 | 255人(144人・111人) | 256人(134人・122人) |
落合村 | 82(3) | 90(4) |
419石 | 424(228・196) | 422(219・203) |
乞田村 | 66(1) | 70(2) |
359石 | 386(204・182) | 378(199・179) |
一之宮村 | 40(3) | 40(2) |
392石 | 243(122・121) | 216(112・104) |
寺方村 | 50(5) | 54(6) |
204石 | 281(135・146) | 262(125・137) |
貝取村 | 42(1) | 44(1) |
148石 | 257(132・125) | 251(128・123) |
関戸村 | 43(3) | 46(4) |
284石 | 253(127・126) | 250(122・128) |
連光寺村 | 76(3) | 120(7) |
323石 | 676(336・340) | 674(329・345) |
計 | 448戸(20戸) | 512戸(28戸) |
2775人(1428人・1347人) | 2709人(1368人・1341人) | |
つまり、連光寺村ではこの時期に多くの家が分家して独立したのである。それにより、連光寺村の一世帯あたりの人員は九人から五人程度に減っている。他村はおおむね五、六人であるから、明治五年に至って連光寺村が他村に近づいたといえる。
これらの史料から、多摩市域の村々は江戸時代以来の農業地帯としての性格を保っていたといえよう。また、人口にも大きな変化はみられなかった。しかしこの時期、村のなかでは、村役人と一般農民との関係について重大な変化が進んでいた。