訴えられる村役人

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江戸時代の村は、名主・組頭(年寄)・百姓代という村方三役が、村政の運営にあたっていた。それをより細かくみれば、名主は年貢の徴収などの行政事務を負うとともに、村入用の徴収と運用など村政全般をつかさどり、組頭は名主を補佐する役目を担っていた。そして百姓代は一般農民の立場を代表し、名主・組頭による年貢や村入用の割り付けに立ち会うなど、村政に不正がないか監視することを役目としていた。名主の選任は、村により世襲の場合と年番の場合の二つに分かれるが、いずれにしてもその村のなかで有力な農民が就いていた。村の重要事項がすべて名主に集中していたために、彼らのなかにはその立場を利用して不正を行う者もあった。しかし、幕末維新期になると、一般農民の政治意識も高まり、村役人の不正を積極的に訴えるようになった。それにより各地で村方騒動などが頻繁に発生していた。そして日野宿組合の大惣代をつとめる富沢忠右衛門のもとには組合内の村々から情報が送られてきた。そのなかから、まず和田村の紛争をみてみよう(資三―25)。
 明治四年(一八七一)二月、上中下各組の百姓代三人が富沢忠右衛門に報告していることによると、次のようなことが起きていた。上組百姓代河内清兵衛宅へ百姓友右衛門が訪れ、前年の村入用帳を見たいとの申し出があり貸したところ、返却されなかったため、友右衛門ほか二人から事情を聞いた。彼らの言い分は、前年の年貢の取り立て方に納得いかないので確認したい、またすでに取り立てられた村入用のうち、減少分については返還してほしいというのである。そこで村役人に掛け合ったところ、年貢は規定通り取り立てており、村入用に減少分はないとの答えが返ってきた。さらに、一般の農民が集会し、村役人に不正があると言い触らしているとの風聞があるので、事実かどうか取り調べるよう命じられ、進退きわまり大惣代に相談したというのである。
 ここでは、一般農民が村政の基本台帳である村入用帳を借り出し、それを閲覧したうえで村政に不正がないかを問いただそうとしていることがわかる。しかも、大惣代にこの件を報告した時点で、まだ村入用帳は返却されず、名主・組頭と一般農民との間の調整役となっている百姓代が対応に苦慮しているのである。事態は百姓代の調整機能では解決できないほど深刻化していたのだといえよう。もうひとつ、村の紛争と百姓代の役目との関連を考えさせる事例をみておこう。