落合村では幕末期から紛争が続いていた。その様相を、明治二年九月に小野路村の寄場名主道助が神奈川県在方取締掛望月善一郎へ提出した探索書から紹介しよう(小島政孝家文書)。それによれば、曾我七兵衛知行の下落合村の元名主が以前年貢を横領して行方をくらまし、その跡を継いだ名主も病死したため、三人が年番で名主をつとめることになったが、いずれも自分勝手に村政を運営した。とくに慶応二年(一八六六)の秣場開発の際には、一般農民に相談せずに入会地の境界を決め(詳細は資二(1)53~58参照)、明治元年の年貢先納の際にも三分の一が免除になったにもかかわらず、一般農民にはそれが還元されなかった。しかも、これは曾我七兵衛が知行する落合村・乞田村・一ノ宮村・寺方村・上柚木村(八王子市)の五か村の名主が申し合わせて決めたことだという。
さらに探索書は、落合村でこうした村役人の不正が絶えないのは、百姓代が置かれていないことによると示唆している。落合村の百姓代が不在となったのは、慶応二年(一八六六)にさかのぼる。もともと落合村では、百姓代は家ごとに順番でつとめていたが、この年に先に述べた秣場開発をめぐる村役人の行動を一般農民が地頭所へ訴えるという事件があり、それ以降、名主・組頭と一般農民との間に大きな溝ができ百姓代をつとめる者もいなくなった。その結果、百姓代がもっていた村政のチェック機能が著しく低下したのである。
このように、和田村・落合村とも村役人と一般農民の間に根深い対立があり、それを村内では解決できない状況になっていた。とくに、対立の焦点が、村財政の運用や秣場の管理など、農民の生産活動に直接関連することであったのは注目に値する。自らの生活が脅かされると感じたとき、農民たちは村役人の不正追及に立ち上がっているのである。そして両村とも紛争のなかで、百姓代の役割の重要性が示唆されていた。落合村のように紛争の激化により、百姓代の村政監視機能が停止している村もあったが、これらの機能は大小区制の代議人などに引き継がれていく。