種痘は、一七九六年、ジェンナーによって発明されたが、これが日本に伝わったのは嘉永年間(一八四八~一八五三年)のことである。これが多摩市域に普及するのは、さらに時を経て明治初年であった。日野宿では明治三年十二月二十五日、各村から村役人を一人ずつ寄場役人宅に集め、そこで種痘の実施に関する神奈川県からの指示を伝え、同時に「植疱瘡之噺」と題する啓蒙書が配られた(資三―24)。そのなかでは、近年、東京や横浜では疱瘡が流行して、横浜ではすでに千人以上の死者が出ているが、種痘を受けた子供たちは疱瘡に感染していないなどの例をあげ、その効能を説いている。
こうした神奈川県からの啓蒙にどれほどの説得力があったのか定かではないが、市域ではこれより先、明治三年三月十二日に寺方村の杉田艶女(三歳)が種痘を受けていた(杉田卓三家文書)。これが市域に現れる最初の記録である。しかし、まだ種痘の効能が信じられていなかったためか、接種を受けたことに対して見舞品が送られている。「見舞請帳」をみると、見舞品として多いのが赤袋入りの菓子である。赤という色には理由がある。すなわち、赤や朱は呪術力が強く、あらゆる災厄を祓うと考えられていたのである。しかも赤い色は、それをみることによって、体内の熱を上昇させ悪いものを追い出してしまうとも信じられていた。あたかも種痘の接種によって新たな災厄がもたらされると思っていたかのようだが、やはり近代医療を受け入れるのには抵抗があったのだろう。種痘が村々に普及するためには多くの時間が必要だったのである。
図1―1―5 種痘目出度見舞請帳