日野宿組合の郷学校構想

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近代日本の公教育は、明治五年(一八七二)の「学制」発布により本格化する。しかし、政府はそれ以前、明治二年(一八六九)二月の「府県施政順序」においてすでに小学校設置を重要項目としてあげ、翌明治三年十二月には公的な郷学校設立の太政官布達をだしている。近代国家建設上、公教育の重要性は早くから示されていたのである。一方、幕末維新期の不安定な地域社会で統治に腐心していた名望家(地域有力者)たちにとっても、公教育は風俗の乱れや治安を正し、地域の平穏を実現する有効な方法として、歓迎されることとなる。
 明治四年(一八七一)一月十六日、神奈川県小参事大屋斧次郎らが小野路村(町田市)から日野宿に回ってきた。そして勧農などの他「文字算筆之道」を組合村々名主に説諭した後、八王子宿に向けて出立した(「富沢日記」)。「文字算筆之道」とは少々はっきりしないが、前日、小野路村では郷学校設立につき説諭しており(『稲城市史』下巻)、この事を指しているのだろう。県の役人である大屋は、この年の一月から六月にかけ県下の改革組合村を巡回し、勧農と郷学校設立を熱心に説いて回っていたのである(内山剛一「神奈川県の郷学校とその周辺」『神奈川県史談』 一三)。
 小野路村組合(町田市域など)ではこれに即座に反応し、一月末には、組合内の名望家たちの自主的な学校運営組織である「拱義(きょうぎ)同盟」により「小野郷学」が設立される。そして、多摩市域を含む日野宿組合でも、反応は実に早いものであった。富沢政宏家文書には小野郷学設立とほぼ同じ時期、明治四年二月の日付をもつ「郷党勧学之建言」が残されている(資三―28)。これは富沢忠右衛門(政恕)が、日野宿組合大惣代・連光寺村名主として神奈川県に宛てて書いたものであり、日野宿組合での郷学校設立計画書であった。

図1―1―6 富沢政恕「郷党勧学之建言」(明治4年)

 その冒頭で富沢は、組合内に「無学」な者が多く、村役人や有力者に至るまでそうなので、行政伝達に支障をきたし「上意」がなかなか貫徹しない、という現状を述べる。その上で、先頃、出張官員(大屋のことと思われる)から指示されたように日野宿組合内に「勧学場」を設立し、有力者は言うにおよばず、一般住民の子弟に至るまで組合村々の広範な人々を対象とした教育にあたりたい、とする。地域行政担当者である富沢政恕の設立意図は鮮明である。
 続いて別紙「郷党勧学場規則」も含め、具体的に授業日や教育内容、教員、経費、運営体制などが記されていく。公教育としてなるべく多くの人が学べるよう「謝物席料」などは無用とし、農業に差支えない日程とされた。経費に関しては、給料など官費をあおがないようにする、私物化されていた組合内の無檀無住寺堂の免税地からあがる全収益を財源とする、勘定の取調べと記録は組合村の大小総代立会いのもとで行う、などとある。富沢大惣代のもと、日野宿組合による自主自立の郷学校が構想されているとみることができよう。また、その教育方針は記紀神話などを指すと思われる「神典古史」を軸に「御国体をしらしめ」、その上で漢学や蘭学などにおよび、「実用を旨」とする。神話の時代より天皇が統治する国家体制であるという、日本の「伝統」や「歴史」とみなされたものを教える国学の勉強が、最重要のものとして明確に打ち出されているのである。地域行政を円滑にすすめるためとされた富沢の郷学校教育の構想は、同時に、天皇を統治者とする国家という秩序観の問題を含みこみ、その中に位置づけて主張されたものでもあった。