この計画案からまもない明治四年四月五日、「富沢日記」に「和漢郷党勧学場基立」の廻状を差出す、とある。計画案はいよいよ具体化されることとなったのだ。十一日には組合小惣代の一人、三沢村(日野市)の土方浅右衛門と協議を行い、十七日に「郷党学校」が日野宿組合内に開設された(「富沢日記」)。従来、三多摩における早い段階(明治四年前半期)での郷学校設立は、一月の「布田郷学校」(調布市)、同月末の小野郷学が知られるのみだったが、同時期、日野宿組合内にもすでに郷学校が設立されていたのである。その名称であるが、同年五月に「向ケ岡勧学所」名で差出された廻状があり(「御用留」柚木幹夫家文書)、これが正式なものだろう。以下、この向ケ岡勧学所について、まず「富沢日記」を主なてがかりにみていくこととする。
向ケ岡勧学所に関係した村々として、開設日(四月十七日)の日記には、多摩市域の和田村・乞田村、由木方面(八王子市)の越野村・中野村・大塚村、七生方面(日野市)の三沢村・落川村・百草村など、日野宿組合の南部にあたる諸村の名が見える。また、先の明治四年五月の廻状では、寺方村・乞田村・和田村・百草村・一ノ宮村が関係していたことがわかる。つまり、日野宿組合全体ではなく、大惣代富沢政恕の居村周辺を中心とする村々ということになろう。多摩市域の村々も大部分が含まれている。これをどう考えるかは難しいが、この時期設定されていく戸籍区(本章二節参照)が影響しているのかもしれない。明治四年段階の史料に、前記の各村に富沢政恕の連光寺村も含めてその所属をみてみると、戸籍区第三二区の第一から第五小区のそれぞれに属し、この第一~第五区管轄の戸長は富沢政恕なのである(資三―18)。ただ、府中方面(「分梅」「小野宮」)からも通うものがあったようだ。いずれにせよ、この勧学所の関係領域については今後さらに検討が必要だろう。
向ケ岡勧学所開設当日の十七日、今後、授業日は毎月一と五の日(一、五、十一、十五、…)とすることが決まった。日記でこれに相当する日付をあたってみると、明治四年四月二十五日から十二月一日の「納会」まで、大体この日程で実際に授業が行われていたようだ。ただし五月(旧暦)は農繁期のため休校とされ(「御用留」柚木幹夫家文書)、六月一日から再開されている。出席者数は一定しないが、開設日(四月十七日)の二五、六人を最高に一五~二〇人位の時が多い。しかし一〇人を割り込むこともたびたびである。公的に設立したものとはいえ、通った人はごく限られていたものと思われる。
次に教師についてみてみる。学校開設日当日(四月十七日)の出席者として日記に先ず記されているのが、「奥伊豆武田温齋」であり、「助教」(教員補助)「周旋方」(幹事)と続く。武田は教師として招かれたのだろう。しかし、以後日記に彼の名は見いだせない。一方、谷保(国立市)の「穂積」「穂積老人」が多く学校に出席している。十二月の納会翌日の二日、富沢政恕らが谷保の彼のところに、「学校出勤之謝義」を持参するため出かけていることからして、この穂積なる人物は教師であったと考えられる。この武田と穂積についてはまた後に触れることとしよう。
学校はどこにあったのだろうか。富沢の建議では組合村内の複数箇所に「仮学場修理」となっているが、向ケ岡勧学所の実際の位置ははっきりしない。ただ、当の富沢政恕宅が一度使用されたことが日記にみえる。また明治四年の「和漢郷黌詩歌集」では、富沢涼蔭(五三郎、連光寺村の有力者)が、自宅を郷学校の「かり(仮)のまなひ(学び)ところ」として使用していたことを詠んでいる(資三―31)。これが実情だったと考えられる。
教育の内容についても不明な部分が多い。ただ、これを考える上で先述の向ケ岡勧学所が差出した明治四年五月の廻状(「御用留」柚木幹夫家文書)は興味深い。この廻状は寺方・乞田・落合・和田・百草・一ノ宮各村の「神職衆」と「筆学所」(寺子屋)宛に出されたものである。そこでは郷学校の六月再開にあたり、「和漢講義」に加え「神典講説」を行うので神職は出席せよ、とされていた(寺子屋については後述)。つまり、富沢の建言にいう「神典古史を先とし御国体をしらしめ」ることを実行しようというわけである。
なお、向ケ岡勧学所設立の背景には富沢政恕ら地方名士の広域的なつながりがあったようである。先述の明治四年「和漢郷黌詩歌集」(資三―31)をてがかりにその点を考えてみよう。この詩集草稿は、向ケ岡勧学所とその開設に関連して寄せられた詩歌を、自作も交えつつ到来順に任せて記したものである。「富沢日記」に「郷黌開筵之賀詩集」を書き記す、とあるのが学校開設まもない明治四年四月二十六日、末尾の方は夏から秋の季節にうたわれたものである。前半の漢詩と後半の和歌で大きく二つに分けられ、漢詩の方は富沢政恕の郷学校設立を祝う地方名士たちの作品が並ぶ。和歌の方には勧学所で学んだ富沢政賢ら子どもたちの作品も含まれている。
漢詩の作者には本田定年、釈素堂(窪全亮)などの名が見える。本田は谷保(国立市)の有名な医者の家柄に生まれた名望家で、後年、民権運動に加わり自由党員となる人物である。窪全亮は大丸村(稲城市)出身の高名な漢学者で、彼を教師にこの年八月、長沼郷学校が設立される。郷学校の設立がこうした広がりをもっていたことをまず押さえておこう。その上で注目したいのは、同じく漢詩の作者として登場する穂積宗堅と穂積温齋なる人物である。後者は、十月中旬の時点で向ケ岡勧学所に出席していた様子が、その詩の内容から判明する。そして先の本田定年の医術師匠に、武田宗堅という人物がいる。伊豆加茂郡長津呂村の人でC・W・フーヘラントの医術系統の蘭方医、明治四年当時は谷保の本田家に招かれていた(『国立市史』中巻)。以上の諸点からして、先に触れた向ケ岡勧学所の教師と思われる「奥伊豆武田温齋」と谷保の「穂積」「穂積老人」とは同一人物で、本田の師匠である武田宗堅である可能性が高い。すなわち、富沢政恕は本田を通じ、蘭学を教えることのできる武田宗堅に目をつけ教師に招いたのではないのだろうか。もちろん、これはまだ仮説の域を出ず、その事実関係については今後の検証に俟ちたいが、ともかくこうした地方名士のネットワークにより、遠くはなれているようにみえる諸地域が人的につながっていくことは、当時決して珍しくないことなのである。