玉川向岡郷学校

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この年の八月、神奈川県は郷学校整備のため触書を通達する(資三―29)。郷学校教師養成のため「貢進生」の名のもとに各組合村から相応の者を推薦、横浜語学所へ差出してほしいとし、また、八月九日付で組合村単位での郷学校設置二七か所指定、郷学校の統一規定として「郷党仮議定」(郷学校設置運営の準則)と「郷学校仮規則」(学則)が制定される。これらの通達は開明的なものであり、郷学校を初等教育機関として明確に位置づけた点で、二章五節で扱う「学制」期の教育政策に繋がる動向として注目される。
 さて、この県の通達をうけて、多摩市域を含む日野宿組合では郷学校の再編をすすめていったと考えられる。その結果だと思われるが、翌明治五年(一八七二)早々の一月九日の日野宿組合の初集会で、この年からの組合内郷学校の新体制と日割が決定し、十五日には廻状が出されている(「富沢日記」)。この通達によれば表1―1―9のような四校体制となり、教師の村岡笠城(りゅうじょう)が巡回することとなった(寺沢茂世家文書)。連光寺村には「向ケ岡学校」が誕生し、授業日は月の五と十の日。一月二十三日の「三沢村学校」(高幡学校)開校に続き、二十五日開校予定だったが大雪で延期、二月一日開校となった。教師の村岡笠城出席のもと、富沢政恕家に八〇人を集めて開校式を行った(「富沢日記」)。なお、「向ケ岡学校」は正式には「玉川向岡郷学校」を呼称としていたようだ(図1―1―7)。
表1―1―9 日野宿組合郷学校の体制
(明治5年)
学校名 設置場所 授業日 開校予定日
柚木学校 堀之内村 2・7の日 1月22日
高幡学校 高幡村 3・8 〃 1月23日
日野学校 日野宿 4・9 〃 1月18日
向ケ岡学校(玉川向岡郷学校) 連光寺村 5・10 〃 1月25日
休講日 1・6の日
明治5年1月15日「当組合郷学校」(寺沢茂世家文書)。


図1―1―7 玉川向岡郷学校印

 七月六日の戸籍区第三二区廻状によれば、玉川向岡郷学校は連光寺・関戸・一ノ宮・貝取・寺方・乞田・落合・和田・百草の九か村により経費を分担し、教場や助教昼食は富沢政恕がひきうけている(寺沢茂世家文書)。学校経費を各村で負担するこのやり方は、後の小学校に引き継がれることになる。そして、この領域は戸籍区第三二区中の第一、二小区に一致し、両小区は関戸村の井上惣兵衛(季僖)が兼任で統轄していた。行政組織的性格を強めた戸籍区と郷学校が密接に関連していることがうかがえる。なお、この領域はほぼ後の多摩村の範囲に相当する。
 教師となった村岡笠城は岡山県から招かれた儒学者・漢詩人であったが(『日野市史』通史編三)、出張や病気で欠席することが多く(資三―34・35)、その分、富沢麟之助(政賢)や土方喜久太郎ら助教(資三―33)が活躍することになったと思われる。政賢や喜久太郎らは、同組合内の「三沢学校」(高幡学校)や柚木学校授業日にも出かけている(「富沢日記」)。なお、玉川向岡郷学校の出席状況は多い時は三〇人、通常は一四人~一八人程度であった(同上)。公教育の形を一応とっているとはいえ、やはり通えるのは限られた人々であったといえる。