さて、この県の通達をうけて、多摩市域を含む日野宿組合では郷学校の再編をすすめていったと考えられる。その結果だと思われるが、翌明治五年(一八七二)早々の一月九日の日野宿組合の初集会で、この年からの組合内郷学校の新体制と日割が決定し、十五日には廻状が出されている(「富沢日記」)。この通達によれば表1―1―9のような四校体制となり、教師の村岡笠城(りゅうじょう)が巡回することとなった(寺沢茂世家文書)。連光寺村には「向ケ岡学校」が誕生し、授業日は月の五と十の日。一月二十三日の「三沢村学校」(高幡学校)開校に続き、二十五日開校予定だったが大雪で延期、二月一日開校となった。教師の村岡笠城出席のもと、富沢政恕家に八〇人を集めて開校式を行った(「富沢日記」)。なお、「向ケ岡学校」は正式には「玉川向岡郷学校」を呼称としていたようだ(図1―1―7)。
学校名 | 設置場所 | 授業日 | 開校予定日 |
柚木学校 | 堀之内村 | 2・7の日 | 1月22日 |
高幡学校 | 高幡村 | 3・8 〃 | 1月23日 |
日野学校 | 日野宿 | 4・9 〃 | 1月18日 |
向ケ岡学校(玉川向岡郷学校) | 連光寺村 | 5・10 〃 | 1月25日 |
休講日 | 1・6の日 | ||
図1―1―7 玉川向岡郷学校印
七月六日の戸籍区第三二区廻状によれば、玉川向岡郷学校は連光寺・関戸・一ノ宮・貝取・寺方・乞田・落合・和田・百草の九か村により経費を分担し、教場や助教昼食は富沢政恕がひきうけている(寺沢茂世家文書)。学校経費を各村で負担するこのやり方は、後の小学校に引き継がれることになる。そして、この領域は戸籍区第三二区中の第一、二小区に一致し、両小区は関戸村の井上惣兵衛(季僖)が兼任で統轄していた。行政組織的性格を強めた戸籍区と郷学校が密接に関連していることがうかがえる。なお、この領域はほぼ後の多摩村の範囲に相当する。
教師となった村岡笠城は岡山県から招かれた儒学者・漢詩人であったが(『日野市史』通史編三)、出張や病気で欠席することが多く(資三―34・35)、その分、富沢麟之助(政賢)や土方喜久太郎ら助教(資三―33)が活躍することになったと思われる。政賢や喜久太郎らは、同組合内の「三沢学校」(高幡学校)や柚木学校授業日にも出かけている(「富沢日記」)。なお、玉川向岡郷学校の出席状況は多い時は三〇人、通常は一四人~一八人程度であった(同上)。公教育の形を一応とっているとはいえ、やはり通えるのは限られた人々であったといえる。