郷学校設立が意味するもの

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日野宿組合の新しい郷学校体制を通達した明治五年(一八七二)一月十五日廻達(寺沢茂世家文書)において、授業日には「村役人は勿論、筆道師範の者門弟一同召連れ、其外有志の者出勤」するようにとされている。「筆道師範」の問題はひとまず措くとして、実際の郷学校は初等教育に止まらないものであることがわかる。村々の人々全体を視野にいれたものといえよう。特に村役人の出席が当然視されていることには、先にみた明治四年二月の富沢政恕の建言との関連がうかがわれる。総じて、日野宿組合における郷学校設置は、地域の秩序や行政の刷新のための教育運動、とでもいうべき性格をもっているのである。県の郷学校設立の働きかけに富沢政恕が素早く反応するのも、彼が維新期の不安定な地域行政を担う名望家の一人であり、公教育を有効な対策法と認識したためと考えられる。そして、このことを象徴するものが、郷学校名に「向ケ岡」「向岡」と呼ばれた、連光寺村にある桜の植樹場所の名を冠する点である。二章四節にみるように、古歌に歌われた「向岡」は幕末以来、富沢家の権威のもとで統治された地域に対して共有されつつあった郷土の歴史イメージであり、いわば地域の「由緒」「伝統」を象徴していた。富沢家中心の地域秩序の強化刷新の切り札として、富沢政恕が郷学校を考えているからこそ、学校名は「向岡」でなければならないのである。この富沢政恕のこだわりは、この後の小学校設立の際に極めて明瞭に、そして新たな意味をもって再登場することになる(一編二章五節)。
 さて、地域秩序の刷新という郷学校の性格については、すでに小野郷学に関して強調されてきた点である(渡辺奨・鶴巻孝雄『石阪昌孝とその時代』他)。ただし、町田の名望家である石阪昌孝や小島為政らを中心とするこの小野郷学の場合、地域社会の秩序刷新をめざす際の目標として儒教的な道徳の理想世界が前面に押し出されていた。一方、日野宿組合の郷学校の場合は、こうした理想世界として儒教が目標として掲げられるわけではない。明治四年段階ではむしろ国学と天皇権威への傾斜が目立つ。この相違は何を意味するのだろうか。
 国学的世界に基づく天皇の権威に依拠し、国家との関係で自己の行動を位置づけること自体は、当時の名望家に共通する傾向である。一方、三多摩の名望家は、彼らの儒教的教養(漢詩)の伝統に結びつく形で、近藤勇や土方歳三を忠勇の士として敬愛するといった、佐幕派的心情を一方でもっていたとされる(安丸良夫『近代天皇像の形成』)。こうしたことを念頭におくと、石阪・小島―小野郷学に比べて富沢政恕―日野宿組合の郷学校は、よりストレートに前者の傾向が現れている、と位置づけることができよう。名望家の性格の多様性に問題は関連するのである。
 この名望家の多様性に関連する問題として、郷学校の自治的性格という点にも触れておこう。小野郷学は拱義同盟という名望家の有志的結合を基盤にする(先述)。これに対し、日野宿組合の郷学校は先述の如く、戸籍区など行政組織に依存する傾向が強いのである。教員の調達においても、小野郷学が(結果的にとはいえ)地元の知識人で教員を構成していたのに対し、日野宿組合の郷学校は外から知識人を招く形をとっている。両者は、組合村的な郷学校という点では共通するが、小野郷学にくらべると、日野宿組合の郷学校は自治的な面である種の弱さをもっていると考えられる。
 郷学校は公権力の働きかけによる公教育事業なのだが、名望家は地域の秩序全体を刷新する手段として積極的にうけとめた。そして後の教育政策にくらべ地域の自主性にまかされる部分が大きかったため、各郷学校はそれを担う各地域の名望家たちの多様性と事情が直接反映した個性的なものとなったのである。なお、日野宿組合の郷学校の最初の教師が蘭方医の武田宗堅だとすれば、国学的な郷学校での蘭学志向という興味深い問題もある。今後の研究の進展を期待したい。