多摩市域の寺子屋関係資料は筆子塚なども含め、残念なことに皆無に近い。しかし表1―1―10にみるように、各村に私塾や寺子屋などの師匠が存在していたことは確かなようだ。また、表中の師匠鈴木文巡が近世の多摩市域で盛んだった俳諧(通一 六編二章)の師匠でもあることは興味深い。民衆的性格をもつ俳諧の普及が初等教育上に果たす役割は大きいといわれており、市域での俳諧の普及は、寺子屋教育の充実を推測させるものである。
村名 | 習字師 | 開業 | 備考 |
一ノ宮村 | 山田龍次郎 | 明治6年以前 | 農間余業で酒醤油荒物商 質屋稼 |
寺方村 | 佐伯與八郎 | 〃 | 後に陶民学校教師、昭景学校教員補助員 |
乞田村 | 有山勝次郎 | 〃 | 名主 |
鈴木文巡 | 嘉永年間 (1848-1854) |
俳諧師匠 | |
鈴木實蔵 | 明治6年以前 | 文巡の子 鈴木實造の誤り | |
小磯玄圭 | 〃 | 医師 | |
貝取村 | 田中悦雄 | 〃 | 僧侶(同村大福寺と思われる) |
落合村 | 小泉平兵衛 | 安政年間 (1854-1860) |
絹商人 名主 年寄 |
和田村 | 真藤平太夫 | 明治6年以前 | 後に生蘭学校教師 著書に『文明名頭字』(明治二十七年) |
関戸村 | 軽辺回造 | 〃 | 軽辺貝造の誤り |
そして、さらに高度な教育をうけようとすれば、私塾にかようことになる。後に三多摩民権運動で活躍することになる和田村の柚木芳三郎は、同村寺院高蔵院住職のもとで六年間、読書と習字を習ったのち、明治三年(一八七〇)、一一歳の時堀之内村(八王子市)の萩生田、次いで中野村金住院(八王子市)の斉藤一諾斎に弟子入、「漢籍習字」を習う。この斉藤一諾斎は、幕臣の家にうまれ僧侶となり、明治維新の際新選組に参加、晩年は中野村などで寺子屋教育に力を注いだ人物で、後には生蘭学舎という小学校(後述)の教員となり、その学校新築に尽力している(以上、多摩文化研究会編『多摩文化研究史料2 民権家の半生涯』。なお、「富沢日記」では明治四年十月十一日、向ケ岡勧学所に彼が来たと記されている)。この一方で柚木芳三郎は、黒川村(神奈川県川崎市)の市川角左衛門に和算を学び、明治五年(一八七二)、一三歳にして「算術秘法伝授書」を授かっている(柚木幹夫家文書)。より高度な教育をもとめて、さまざまな師匠のもとへ出向く様子がよくわかる。
こうした私塾的なものは多摩市域にも確認できる。郷学校を開設した当の富沢政恕が家塾をひらいており、明治五年の富沢政賢家塾証が残っている(資三―70)。また、和算に関しては寺方村の伊野銀蔵が塾を開いている(一編三章七節)。
公的なものとして設立された日野宿組合の郷学校は、従来から地域にあるこうした私的な教育機関と、どのような関係にあるのだろうか。先にみたとおり、玉川向岡郷学校の明治五年一月十五日廻達では、師匠に対し、その教え子を引きつれて授業に出席することが要請されている。また、明治四年の向ケ岡勧学所の五月廻達(「御用留」柚木幹夫家文書)でも、寺子屋に対して、村の「童蒙書学師範衆」を勧学所の助教の一員に加えたいとし、その弟子をつれてくるよう要請している。同通達では続けて弟子中の「経典未学」の初級児童への教授上の配慮も述べられている。このように、郷学校の内部に師匠をその門弟もろとも組み入れようとしていたのである。その教材や授業方法(資三―30・36)の内実が、和漢の私塾や寺子屋とさほど変わらない理由の一つはここにあるのだろう。
以上みてきたところからして、富沢政恕も郷学校において近世以来の地域の教養(文字文化)を無視していたわけではない、と考えられる。ただ、地域行政の刷新という課題において、そうした教養のレヴェル・アップと、そのさらなる普及が必要と判断していたのだろう。これを当局お墨付きの公教育という形で、階層を超えて徹底的組織的に進めようとする意図が、郷学校設立にはこめられていたのではないだろうか。もちろん、先述の如く実際に郷学校に通えたのは限られた人々だけだったわけだが、その意図においては、地域の文化的伝統に根ざした教育の近代化の可能性が秘められていたとの評価も可能だろう。だが、「学制」(明治五年)以降本格化する教育政策において、政府は画一的な形での教育の近代化を、上から強力にすすめることとなる。