王政復古という形で天皇の神話的・宗教的な伝統権威を前面にかかげた明治新政府は当初、神道を国教化することで国民意識の統一をはかろうとしていた。この動向において人々の宗教や信仰のあり方にも大きな変更が加えられることとなる。神仏分離がそれである。慶応四年(一八六八)三月以降、明治新政府はこの神仏分離関連の諸布告をだし、神仏習合の伝統のもとにあった神社と神道から仏教的な要素を分離することとした。
神仏分離でまず問題とされたのは、寺院僧侶による神社の管理や祭礼の執行であった。神社は寺院の管理下に置かれている場合が多かったからである。市域各村の主要な神社の多くもそうであった(資二(2)439~440頁)。その中には神社付属の寺院(別当寺)もある。政府はこうした神社に奉仕する寺院僧侶を俗人にもどさせ、神主にふさわしい身なりに変える措置を命じている。これを「復飾」といった。
こうした面での神仏分離の状況を、落合地区の白山神社にみてみよう。白山神社は、隣接する東福寺(真言宗)を別当寺としていた(東福寺が白山神社の別当寺となった経緯は通一第六編第三章を参照)。境内には本地仏(祭神の本来の姿とされる仏)の十一面観音を納めた観音堂もあり、典型的な神仏習合の神社であった。当時まだ上落合村と下落合村に分かれていた落合地区全体の中心となる神社で、下落合村に位置していた。
東福寺と白山神社の分離願が提出されるのは明治二年四月である(資三―37)。白山神社の氏子と村役人一同で協議を行い、東福寺の僧隆證の弟子宝侃を復飾させ、沢井兵庫の名で神主職を担当させることとした。隆證自身ではなく弟子を神主として復飾させたのは、隆證が東福寺を離れる訳にはいかなかったからである。というのも東福寺は別当寺である一方、「滅罪」すなわち先祖を供養する檀家を抱える寺でもあり、上下の落合村(あわせて八〇軒)中、二六軒ほどがそうだったのである(明治三年当時、寺沢茂世家文書)。なお、すでに述べたとおり当時の落合地区はまだ上下二か村に分かれていたため(その統一は明治三年三月)、この分離願の差出人署名には神社所在地の下落合村村役人代表の名主喜惣次の名と、氏子代表の上落合村の百姓五兵衛の名が併記されている。また「老衰」の隆證にかわって、この分離願に関わっている僧隆宥の普門寺(日野市)とこの東福寺は、ともに高幡村(日野市)金剛寺の末寺であった。
神仏分離においてはこの他に、祭神や神体、社の称号から仏教的な要素を排除することや、仏具や仏像、仏堂の神社からの撤去なども命ぜられていた。なお、地方によっては、神仏分離の過程で廃仏毀釈という仏具仏像などの破壊行為をともなう激しい仏教排斥運動がおこったが、明確にそれを示す事実は多摩市域にはないと思われる。