市内の寺院と廃寺

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市域各村における神仏分離に関連する問題として重要なものに廃寺がある。神仏分離で廃仏毀釈といった厳しい方針をとることがなかった地方でも、寺院の統廃合が行われることは比較的多かったのである。また特に無住無檀、すなわち檀家がなく住職がいない寺院地を失業士族対策の点から利用しようとする現実的な発想も、廃寺にはこめられていた(安丸良夫『神々の明治維新』他)。ただし、こうした無住無檀の寺院廃合が政府の布告として明確にうちだされるのは明治五年(一八七二)十一月である。多摩市域やその周辺で廃寺が行われるのもこれ以降のことである。参考として、表1―1―11に明治六年六月の段階で廃寺の実施が確認できる、第八区五~一〇番組内の村名を挙げておく。
表1―1―11 廃寺を実施した第八区五~十番組各村一覧
(明治6年6月)
番組名 村名
五番組 小山田村
図師村
六番組 上柚木村
下柚木村
越野村
松木村
大沢村
七番組 中野村
八番組 三沢村
程久保村
九番村 関戸村●
落合村●
連光寺村●
十番組 坂浜村
富沢政宏家文書(国立史料館蔵)より作成。
注)●は多摩市域。

 当時の市域各村における寺院の状況を「第三拾弐区旧神官寺院名籍」(明治五年ころ、資三―47)にみておこう。なお「第三拾弐区」とは、多摩市域各村が当時属していた戸籍区のことである。この名簿によると、市域には真言宗寺院は九つあり、禅宗(曹洞宗)寺院は六つ、時宗寺院は一つ、となっている。このうち、住職のいない寺院は八つである(表1―1―12)。こうした無住寺院のうち市域各村で廃寺となったのは、連光寺村の薬王寺・川光院、関戸村の熊慶寺、落合村の地蔵院、この三か村四寺院であった。このうち、関戸村熊慶寺の廃寺に関しては史料が残されておらず、詳細は不明である。この他、表1―1―12中、寺方村の東医庵も現存しないが、同庵は寿徳寺境内にあり(資三―41)、廃寺政策の対象として廃されたものではないと考えられる。
表1―1―12 明治5年頃の多摩市域寺院
村名 寺院名(宗派) 住職
連光寺村 高西寺(禅宗〔曹洞宗〕) 宜山
薬王寺(真言宗) 無住
川光院(真言宗) 無住
関戸村 観音寺(真言宗) 諦信
延命寺(時宗) 無住
熊慶寺(禅宗〔曹洞宗〕) 無住
一ノ宮村 真明寺(真言宗) 無住
寺方村 寿徳寺(禅宗〔曹洞宗〕) 國城
観蔵院(禅宗〔曹洞宗〕) 達全
宝泉院(真言宗) 無住
東医庵(禅宗〔曹洞宗〕) 無住
貝取村 大福寺(禅宗〔曹洞宗〕) 悦雄
乞田村 吉祥院(真言宗) 賢阿
落合村 東福寺(真言宗) 學典
地蔵院(真言宗) 無住
和田村 高蔵院(真言宗) 賢逞
「資料編三」No.47より作成。

 明治六年五月末、第八区会所から市域各村などへ廃寺の通達があった。連光寺村の場合は二十二日だった。この通達に従い、村は寺院の境内、堂宇、所有地などの項目につき書類下書きを作成、第八区会所へ提出した。第八区会所では提出された書類を審査し、廃寺にするかどうかを決定したのである。
 ところで、この時期に市域などで実施された廃寺で注目すべきなのは、それが当時の小学校設立問題と密接な関連をもっていた点にある。一編二章二節にみることになるが、このまさに明治六年五月という時期、「学制」にもとづく小学校が市域に誕生していくのであり、その経費調達は地域の大きな問題だった。先の廃寺の通達以前、明治六年四月の日付をもつ落合村地蔵院の廃寺願では、境内地は官有地とするが(上知)、地蔵院所有地や建物は村でひきとり、「小学校費用ニ備置」たいとしていた(有山武三家文書)。また、同年六月、県から飯岡権大属、干阪権少属といった役人が村々を巡回し、廃寺にともなう払い下げの趣旨は廃寺を校舎に充当したり付属品払い下げによる費用の学資充当をはかることである、との指導を行っていた。連光寺村に彼らが回ってきたのは同月八日で、同村の薬王寺境内地を検分し、次いで同村下川原へ赴いている。これは川光院の検分が目的だろう。これを受けて連光寺村では翌々日の十日、薬王寺と川光院の地所などにつき入札を行い、両寺院とも富沢忠右衛門(政恕)が落札している。