さて、以上に述べたような明治初年の動向は、当然のことながら伝統的に神社に関わってきた神主家の人たちにも大きな変化を迫ることとなった。これを一ノ宮村の小野神社代々の神主家である、新田家と太田家の場合につき、具体的にみていくこととしよう。小野神社は、市域において近世以来の神主家がつとめる唯一の神社であり(資二(2)439~440頁)、朱印地(将軍から朱印状などによって年貢・課役を免除された寺社所領)一五石をもつ領主でもあった。この朱印状差出しにかかわる文書によれば(明治元年十二月四日、太田伊三郎家文書)、これまで朱印状を預かっていたのは新田家のほうで、近世において新田家と太田家には、神社運営の役割分担上、相違が存在していたことがうかがえる。また寺方村に住む森田家が社家としてつとめていた。
明治三年七月二十八日、神主の新田主水(苗維)・太田左門(正直)、社家の森田記内(鉄之進)は自身と家族に至るまで葬式を仏式から神式に変更する旨を神奈川県に願いでた(資三―38)。これは慶応四年(一八六八)三月十九日、神主家の神式での葬祭(神葬祭)を命ずる新政府の布告によったものである。従来、新田、太田両家は一ノ宮村真明寺(真言宗)の檀徒、社家森田家は寺方村寿徳寺(曹洞宗)の檀徒だった。神葬祭への変更は、神主家における神仏分離を意味していた。
明治初年の神主家が直面した大きな問題、それは神社と神主の国家統制を意図した、明治四年の社地の上知と世襲制度廃止の問題であった。社地の上知(官有地として提出すること)は、一月五日の社寺領上知令の布告に基づき境内を除き行われる。これは社寺の経済的な基盤を剥奪するものであり、神社神主の国家依存が決定的なものになったとされる。この上知令が小野神社のもとに通達されるのは翌年一月のことである。この上知以後、小野神社にはその朱印地一五石の現収納高のうちの半額のみが給与されることになった。朱印地の収納米を折半してきた新田・太田両神主家にとっては大きな打撃であったと思われる(佐伯弘次「明治前期における一の宮小野神社の歴史的背景」『府中市立郷土館紀要』七)。
一方の神主世襲制度の廃止は明治四年五月十四日に布告され、神主はあらためて当局から任命されなおすこととなる。この布告により、代々続いてきた多くの神主家の人々が神社を離れている。また、同日政府は伊勢神宮を頂点に郷社にいたる神社の社格を定め、続く七月四日の「郷社定則」により戸籍区に一郷社設置と、郷社に付属する神社の社格として村社を設定している。この「定則」は翌明治五年四月に市域各村に通達され(寺沢茂世家文書)、小野神社は第三二区の郷社となった(資三―46)。第三二区は市域各村を含む三七か村で構成されており、区内には小野神社以外に四二の村社があった(同前)。市域内の村社は六つである(表1―1―13)。
村名 | 社格 | 社名 | 神主 | 氏子数 |
一ノ宮村 | 郷社 | 小野神社 | 旧神官 | 38戸 |
新田兵右衛門 | ||||
太田太郎左衛門 | ||||
連光寺村 | 村社 | 春日神社 | 113戸 | |
関戸村 | 村社 | 熊野太神社 | 48戸 | |
寺方村 | 村社 | 山神社 | 57戸 | |
乞田村 | 村社 | 八幡太神社 | 105戸 | |
落合村 | 村社 | 白山神社 | 旧神官 | 86戸 |
沢井速水 | ||||
和田村 | 村社 | 十二社 | 46戸 | |
さて、こうした神社や神主の国家統制にともなうその伝統的な地位の否定に対して、太田・新田両神主家の人々はその後どう対応していったのだろうか。先の表1―1―13をみると、明治五年五月段階での小野神社神主は新田苗維と太田正直のまま続いているものの、「旧神官」とあるように、世襲制度廃止のもとでその地位は当初不安定だったことがうかがえる。そうしたなか、両家は翌明治六年に仮神官として士族の辞令を県からうける一方、当時の教部省政策(先述)の下、教導職に任命されるという新たな段階をむかえる。
この教導職とは、教部省での神仏合同布教のため神主・僧侶を当局が任命したもので、それぞれの宗教的な立場から天皇の権威や、政府の政策(当時の開化政策)を民衆に広めることが目的だった。また教導職資格をもたないものは宗教活動ができないとされていた。そして教導職には大教正以下一四級の等級が設定されており、最下等が権訓導であった。こうした各級資格を得るためには所定の内容で試験に合格しなければならない。表1―1―14をみるとおり、これは小野神社の両神主家も例外ではなかった。例として太田家の靱之助(ゆきのすけ)という人物の場合をみておこう。彼は太田正直の長男(嘉永五年生まれ)で、後に小野神社神主となる。表1―1―14をみると明治八年(一八七五)四月七日に「中教院」の「初科講究検査」に合格し、同年七月十五日に「権訓導」となっている。「初科」とは教導職が習得する必要のある科目のうちの最初の課程である。そして、この課程での試験合格者のうち上位のものは「訓導」、下位のものは「権訓導」に推薦されることになっていた。また、「中教院」は教部省政策を推進する大教院(東京)のもとに各府県に設けられた組織である。具体的には神奈川県中教院(明治七年二月設置、神奈川台本覚寺)である。なお、中教院の下には戸籍区(→区・大区)に小教院(小教会)がおかれており、市域が関係する第八大区の場合は、小山田村(町田市)の大泉寺(曹洞宗)に設置されていた(佐伯前掲論文他)。教部省政策のもとでの教導職任命という公的な資格付与は、小野神社の伝統的な神主家である新田・太田両家にとっては、自分たちの神主としての地位の回復、確保という意味をもっていたと考えることができよう。
氏名 | 年(明治) | 辞令内容 | 発給元 | 年齢 |
小野神社仮神官 太田正直 |
7.12.9 | 教導職試補 | 権大教正稲葉正邦 | 50 |
神官 太田靱之助 |
8.4.7 | 初科講究検査済 | 中教院 | 23 |
小野神社祠掌 太田靱之助 |
8.7.15 | 兼補権訓導 | 教部省 | |
新田苗維 | 8.7.10 | 兼補権訓導 | 教部省 | 63 |
新田周作 | 9.8.3 | 教導職試補 | 大教正稲葉正邦 | 31 |
権訓導 太田靱之助 |
11.12.26 | 補訓導 | 内務省 | |
太田正直 | 12.2.26 | 補権訓導 | ||
また、政府も神主の生活救済をまったく顧みなかったわけではなく、旧社人の上地された宅地の廉価払い下げ(明治五年)などの措置がとられていく(阪本是丸『国家神道形成過程の研究』)。こうした中で、明治九年(一八七六)三月二十八日、県令よりの達で、新田・太田両神主家に上知されていた社地が無代価で払い下げとなっている。
以上のような過程を経て、新田・太田両家は近代の小野神社の神主としての地位を確保していったのである。