社格の確定

62 ~ 63
教部省政策がすすめた神道を軸に仏教勢力をとりこんでの合同布教は、明治八年(一八七五)四月の大教院解散、明治十年一月の教部省廃止で崩壊する。そこには政府内の政治対立と結合した、仏教勢力(特に浄土真宗本願寺派)の反発があった。一方、この教部省政策崩壊の過程で神道側は神道事務局を創設(明治八年三月)して結集する。ここにおいて明治十年代、神道は宗教的に大きな発展をみせることとなった。だが、そのことは神道の多神教的な性格のために神道勢力の大分裂を結果として招いてしまい、明治十年代半ば、政府は新たな対応をせまられることとなる。以下、この明治十年代における市域の神社と神主に関わる動向をみておこう。
 明治十三年(一八八〇)末、神奈川県から郷社・村社の正式な辞令である「社格状」が一斉に配付された。一ノ宮村の小野神社では、同年十月三十日付で明治六年十二月にさかのぼって郷社に指定されている。この明治六年にさかのぼって指定するという措置は、市域の村社の場合も同様だった。こうした「社格状」配付は、表1―1―13にすでにみた社格が最終的に確定したことを意味しよう。そして、乞田村と貝取村共同の中心神社である村社の八幡神社ではこの時、差し渡し三尺という大きな太鼓を新たに備えている。このことからして、地域の人々にとって「社格状」の配付は喜びをもって迎えられたのだろう。また、この社格確定の動向に関連すると思われるが、翌明治十四年七月二十八日、神奈川県令が揮毫(きごう)した各郷社の額字の完成が通達される。こうして市域唯一の郷社小野神社拝殿を「郷社小野神社」額が飾ることとなった。

図1―1―8 近代の郷社 小野神社(明治10年代の図)

 ところで、この社格確定をうけて小野神社では、新田、太田両家でつとめてきた神主職について一つのとりきめをした。明治十四年八月の「議定書」がそれである(太田伊三郎家文書)。当時小野神社は新田苗維と太田靱之助がともに同格の「祠掌(ししょう)」として小野神社の神主をつとめていた。太田靱之助はすでにみたように太田正直の長男で、父にかわって小野神社神主になっており、明治九年に祠掌に任命されていた。郷社には祠掌より上位の「祠官」一人を任命する、という規定からすると、この二人の祠掌は異例である。「議定書」では、明治十三年の「郷社御確定」の後も「祠官闕員」というのでは「御社格ニ対シ不体裁」なので、今回、年長者である新田苗維を祠官とし、今後は太田新田両家が交代で祠官をつとめていくとしている。ここに小野神社の神主は祠官と祠掌各一人となった。なお、新田苗維のあと祠官となったのは太田靱之助で、明治二十二年十二月二十七日に任命されている(太田伊三郎家文書)。