第三二区の分割願い

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明治四年(一八七一)四月四日に公布された戸籍法によって、多摩市域は神奈川県の第三二区に属した。同年七月十四日に廃藩置県が断行されたが、藩領のなかった多摩市域は、この間も行政区画の変更はなかった。ただし、その内部では区画変更への模索が続けられていた。
 第一章第二節でも触れたように、第三二区は浅川を境に北側の一三か村と南側の二四か村に一人ずつ戸長を置いていた。当初から、住民の感覚では、第三二区は浅川の南北で二つの地域に分かれていたのである。そして明治五年(一八七二)四月には実際に分割を求めて、神奈川県へ嘆願書を提出している(資三―52)。その嘆願書は区内三七か村の連名で、先般の戸籍調査や租税の徴収の際などに浅川が氾濫し、事務の遂行に支障をきたしているため、浅川を境に二つの区に分割してほしいと訴えていた。当然、戸長職は富沢忠右衛門と佐藤隆之助が従来通り引き継ぎ、それぞれ南側と北側を管轄することが想定された。戸籍区は、住民の実際の生活圏ではなく、寄場組合を基礎に区分けしたため、さまざまな矛盾が出ていた。第三二区のみならず、おそらく各地からこうした嘆願書が県のもとへ届けられていたと思われる。むろん、県もしくは政府は、これらの願いをひとつひとつ聞いて、すぐに区画の調整を行ったりはしていない。したがって、第三二区の嘆願に対しても、とくに目立った動きは見せず、この時点では区画の変更は行われていない。しかし、地域からの要求は少しずつ県と政府を動かしていった。
 明治五年四月、政府は従来用いてきた名主や組頭などの呼称を廃止して、戸長・副戸長を置くことを布告した。これは、戸籍法によって設けられた戸長・副戸長と、名主・組頭の権限をめぐり各地で起きている混乱を解決しようとしたものであった。すなわち、戸長などは本来戸籍に関する事務のみ担当する役人のはずであったが、次第に名主らが担当する村政事務にかかわるようになり、両者の権限を区別することがむずかしくなっていた。そこで旧来の村役人を廃して、新たに戸長・副戸長を置いて村政に携わることにさせたのである。しかし、これが新たな混乱をもたらすことになった。この変更に関して、第三二区は同年五月、神奈川県に対し、村役人が戸長・副戸長と改称されると、戸籍事務は新戸長が担当するのか、戸籍区の戸長が担当するのか、と問い合わせている(富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。この質問から、戸長・副戸長という役職が戸籍区と町村両方に置かれることになったため、事務の分担に混乱を生じている様子がわかる。こうした事態に、神奈川県は戸籍区の戸長らを元戸長・元副戸長と呼んで区別させた。さらに十月、大蔵省が、地方の実状に応じて区に区長、小区に戸長を置くことを認めるとの布告を出したことにともない、翌月、神奈川県は戸籍区に置いていた元戸長・元副戸長を区長・副区長と改めた。そして、これは名称の変更にとどまらず、事務分担の変更をもともなっていた。すなわち、区長に戸籍事務だけでなく、区内の行政全般を管轄させることにしたのである。これにより、戸籍区は行政の単位としての性格を持つことになった。ここに県―区(区長)―町村(戸長)という、新たな統治機構が成立したのである。