神奈川県の区画編成

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明治六年(一八七三)五月一日、神奈川県は村費節約を目的として、区画改正を実施した。改正の内容は、県内を二〇区に分け、さらにそれぞれの区のなかに、二〇〇〇石を目安に数か村を組み合わせて番組を設けるというものであった。その結果、県内が二〇区一〇八番組に分けられた。改革の主旨や新たな区画編成について、すでに同年四月、県は県内各町村に布達していた(資三―54)。ところが、富沢政宏家文書のなかには、その二か月前に出された「神奈川県管轄武相七郡区画改正法則」という史料が残っている(資三―53)。これは四月に布達されたものとほぼ同内容であるが、区分けなどに異なる点がみられる。内表紙に「区画御改正ニ付惣布告案」とあることから、「区画改正之大略」の草案である可能性が高い。そこで、しばらく両者を比較しながら神奈川県の区画編成を示してみたい。

図1―2―1 区画改正法則

 まずは、多摩市域が属した第八区について決定した区画を確認しよう。表1―2―1にまとめたように、第八区は五六か村が一一の番組に編成された。各番組の石高は、もっとも少ない三番組が一四七八石余、もっとも多いのは四番組の三一一一石余であったが、平均すると二〇二三石ほどになり、県がほぼ規定通りの規模で番組を編成したことがわかる。そして市域八か村のうち、和田村のみ七番組、ほかは九番組に属した。ところが、二か月前には異なる編成が構想されていた。すなわち、二月段階では、最終的に第九区に属した打越村・鑓水村・長沼村の三か村(いずれも八王子市)が第八区に含まれ、そのため一二の小区に分けられていた。市域も区分け自体は同じだが、八小区と一〇小区に編成されていた。ここで注目に値するのが、二月時点では大区と小区という言葉が使われていたことである。つまり、当初は多くの県と同様、神奈川県も大区と小区という用語で区画編成を行っていたにもかかわらず、四月までの二か月間に区・番組という神奈川県独自の用語に変わっていたのである。こうした変更を経て、五月から区番組制が施行されたが、その後さらに番組の数を一つ減らし一〇番組とした。一一番組の矢ノ口村を一〇番組に組み込み、中島村を第五区の八番組に移したのである。
表1―2―1 第8区の編成
明治6年2月 明治6年4月
区画 村名 区画 村名
1小区(4か村)
2030石00
鶴間村 1番組(4か村)
2030石00
鶴間村
金森村 金森村
小川村 小川村
成瀬村 成瀬村
2小区(6か村)
1623石22
金井村 2番組(6か村)
1623石22
金井村
本町田村 本町田村
大谷村 大谷村
森野村 森野村
原町田村 原町田村
高ケ坂村 高ケ坂村
3小区(3か村)
1478石57
木曽村 3番組(3か村)
1478石57
木曽村
根岸村 根岸村
山崎村 山崎村
小野路村 4番組(7か村)
3111石06
小野路村
野津田村 野津田村
真光寺村 真光寺村
大蔵村 大蔵村
三輪村 三輪村
能ケ谷村 能ケ谷村
広袴村 広袴村
5小区(3か村)
1533石59
上小山田村 5番組(3か村)
1933石59
上小山田村
下小山田村 下小山田村
図師村 図師村
6小区(4か村)
1671石23
打越村 6番組(7か村)
2564石55
小山村
中山村 上柚木村
鑓水村 下柚木村
小山村 越野村
7小区(6か村)
1895石27
上柚木村 大沢村
下柚木村 中山村
越野村 松木村
長沼村 7番組(5か村)
2003石30
堀之内村
大沢村 別所村
松木村 中野村
8小区(5か村)
1971石30
堀之内村 大塚村
別所村 和田村
中野村 8番組(7か村)
2220石21
程久保村
大塚村 高幡村
和田村 平村
9小区(7か村)
2144石26
程久保村 平山村
高幡村 三沢村
平村 落川村
平山村 百草村
三沢村 9番組(7か村)
2179石00
連光寺村
落川村 関戸村
百草村 貝取村
10小区(7か村)
2128石55
連光寺村 乞田村
関戸村 落合村
貝取村 寺方村
乞田村 一ノ宮村
落合村 10番組(5か村)
1914石17
大丸村
寺方村 百村
一ノ宮村 長沼村
11小区(5か村)
1496石77
大丸村 平尾村
百村 坂浜村
長沼村 11番組(2か村)
1199石40
矢ノ口村
平尾村 中島村
坂浜村
12小区(2か村)
1199石40
矢ノ口村
中島村
明治6年2月は「資料編三」No.53より、明治6年4月は「資料編三」No.54より作成した。
注)1 区画名の下の数字は石高を示す。ただし升未満切り捨てた。
  2 網掛けした村は明治6年4月の方には記載がない。

 この区番組制のもとでは、各区に区長・副区長、各村にはいままで通り戸長・副戸長を置くこととされた。区長・副区長の職務は、県からの布達を管内に周知することをはじめ、戸籍の管理、産業や教育の奨励、戸長らの監督など多岐に渡った。こうした事務を行うため、各区には区会所が設置された。第八区では小野路村(町田市)に定められた。区長・副区長は区内の戸長・副戸長による入札(いれふだ)(投票)によって選ぶこととされたが、最初に限り県が任命した。第八区の区長・副区長に任命されたのは、石阪昌孝(野津田村)と橋本政直(小野路村)であった。一方、戸長・副戸長も入札で選ばれた。その選出方法は、村民一〇〇戸ごとに五人の代議人をあらかじめ選出し、その代議人の入札によって決めるというものであった。では、実際にはどのようにして戸長は選ばれたのか、寺方村を例にみてみよう。