一方、代議人の選出も進められた。明治七年六月二十六日、県は代議人選挙に関する通達を各小区へ送り、七月十五日までに代議人を決めるように命じた。同時に、戸長らの選任をはじめ一般農民の動静にかかわることはすべて代議人に下問することとされた。連光寺村では副戸長立ち会いのもと、七月十三日に高西寺で入札を行い、六人の代議人を選んだ(富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。さらに明治八年十月、県は「代議人選挙規則」を制定した。これにより代議人の人員は次のように大幅に増員された(『神奈川県史』資料編11)。
五〇~一〇〇戸 一五人 一〇〇~二〇〇戸 二〇人
二〇〇~三〇〇戸 二五人 三〇〇戸以上 三〇人
この規則のなかでは、代議人は公平を旨とし、民費の賦課方法を相談し、かつその収支を検査して、一般農民に疑念を生じさせないようにすることと規定した。これはまさしく、かつて百姓代が果たしていた村政のチェック機能を受け継いだものといえる。しかも、彼らが大幅に増員されたのは、当時進められていた地租改正事業により、各町村の財政負担が大きくなり、それが民衆へ転嫁されることが多かったからであろう。各町村の財政の引き締めを図りたい県にとっても、代議人の増員は必要だったに違いないが、その一方で、代議人の存在は民意を行政に反映させるルートともなった。
こうした流れは、総代人制の導入へとつながっていく。明治九年(一八七六)十月、政府は「各区町村金穀公借共有物取扱土木起工規則」を布告し、それまで区戸長に任されていた、公金の借り入れや共有の土地・建物の売買、土木工事などは不動産所有者のうち六割以上の者の同意が必要なことを規定した。そして不動産所有者のなかから総代人を選出し、彼らの意思を代表させることも認めていた。代議人にくらべて人数は減っているとはいえ、住民の意思を区戸長へ届けるパイプが法的に認められたのは重要であろう。県はこの規則を受け、明治十年(一八七七)八月、代議人を廃止し、総代人兼小区会議員の選出を指令した。その結果、選ばれたのは表1―2―3に示した人たちである。
村名 | 人名 |
和田村 | 真藤龍蔵 柚木三郎右衛門 |
関戸村 | 相澤勘七 小川新吉 |
連光寺村 | 富澤政恕 林傳右衛門 |
一ノ宮村 | 山田喜之助 山田龍次郎 |
寺方村 | 杉田吉兵衛 藤井為次郎 |
貝取村 | 岸庄助 伊野権之助 |
乞田村 | 有山十七蔵 佐伯要蔵 |
落合村 | 横倉與兵衛 寺澤弥十郎 |