大区会と小区会

76 ~ 77
区番組制から大小区制へと地方制度が変化するにしたがい、県と区の協議機関も整備されていく。区番組制のもとでは、各村に一般農民の代表としての代議人がいて、代議人会議も行われていたが、事実上、県からの命令を伝えるための会議と化していた。前述のように、こうした弊害は明治八年の代議人規則の公布により改められ、代議人には町村の代表としての地位が与えられた。それにより、代議人の会議は小区の協議機関といえるようになった。小区会で協議されていたことを、明治八年十一月の八小区を例にみれば、①地租改正にともなう田畑等級調査、②県官来訪の際の対応、③醤油・濁り酒醸造に関する賦金上納、④博打などの禁止、⑤布達類の廻達の迅速化、の五か条があげられている(山田賢助家文書)。しかし、これらは代議人自らではなく、戸長らが決めた議題であった。つまり、代議人は戸長から下問された事項について協議することになっており、村政に関する問題を自由に議論できたわけではないのである。ちなみに、第八大区一小区の代議人と村用掛の会議では、明治九年五月に田畑・宅地の等級が話し合われている。これ以外ではほぼ八小区と同様の議題があげられている(資三―55)。
 一方、小区の戸長を構成員とする大区会においても、上意下達的性格は色濃かった。その議事内容について、明治七年一月の区番組制下の区会を例にみてみよう(小島政孝家文書)。第一回の区会においては、第八区の区長石阪昌孝が諮問した一二の事項に対して、番組の戸長・副戸長が協議し結果を上申した。一二項目の主な内容は、道路橋梁の修繕、村用掛の月給、雑税の取り立て、民費の割り当て、などである。これらは時期にかかわらず、区会でとりあげられる一般的な議事内容といえる。その後、大小区制に移行しても、こうした傾向は変わらない。明治九年における大区会の議題を議事録から抜き出せば、①小作等級表の提出、②民費予算、③戸籍総計表の提出、④勧業、⑤堤防掛、⑥警察入費、⑦布告の廻達、⑧地租改正、⑨計算掛の設置など、多岐にわたる項目をみることができる。
 ただし、戸長は準官吏として位置づけられており、この会議に住民の意思が反映されたか疑問は残る。しかし、これも総代人制の成立とともに変わっていく。県は、明治十年九月、大区会の議員は小区会議員の互選により戸数三〇〇戸につき一人の割合で選ぶよう命じた。これにより、小区会・大区会ともに公選の議員によって運営されることになった。