物産調査の実施

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多摩市域は多摩丘陵のほぼ中央部に位置し、江戸時代、純農村地帯として発展してきた。しかし、幕末の開港は多摩の農村をも少しずつ変えつつあった。とくに明治時代に入ると、殖産興業政策により在来産業の改良と統制に拍車がかかった。殖産興業政策は当初工部省によって外来産業の導入を中心に推進され、鉄道建設など大規模事業に成果をあげたが、殖産興業政策が本格化するのは、明治六年(一八七三)の内務省の新設からであった。内務省の設立を機に、内務卿大久保利通を頂点とする支配体制(大久保政権と呼ばれる)が、富国強兵と殖産興業を強力に進めていったのである。そして殖産興業政策の重点も在来産業を改良することに移った。すなわち、開港後、安い外国製品の流入によって、崩壊の危機に直面した在来産業を振興することが第一の重要課題となったのである。
 そうした政策を実行するため、明治五、六年頃から、政府は在来産業について各村に調査を命じ、「数目調書」や「物産取調書」などとして提出させていた。これにより在来産業の実態を知ろうとしたのである。これらの取調書から多摩の生産物の概要を探ってみよう。
 まず、明治五年(一八七二)における第三二区の生産物の概要を示せば、表1―2―5のようになる。この表の基になった「物産取調書」では、自家消費分(自用費消)と他地域への販売用(他国輸出)に区別されているが、前者として一五品の生産物、後者として一〇品の生産物があげられている。前者のなかでは米以外の穀物が多く、この地域が畑作中心であることを物語っている。また、販売用の生産物のなかでは、玉川鮎、目籠が多摩地域の特徴を示す生産物といえる。鮎漁が多摩の地域産業のひとつだったことは、今となっては知る人も少ない。
表1―2―5 第32区の生産物一覧
自用消費 他国輸出
4,473石7斗 鶏卵 25,000  
大麦 6,984石   玉川鮎 3,000籠 
小麦 1,862石4斗 200駄 
大豆 931石2斗 生糸 350貫目
小豆 232石8斗 19,500俵 
蕎麦 931石2斗 5,000束 
1,396石8斗 目籠 20荷 
1,396石8斗 馬沓 3,000疋 
菜種 116石4斗 藁縄 5,000房 
里芋 9,312駄   17,500枚 
薩摩芋 3,000駄  
100石  
濁酒 50石  
醤油 100石  
23石5斗
「資料編三」No.65より作成。

 また、大小区制が施行されてまもない明治七年(一八七四)七月、第八大区では風土記を作成し、各小区ごとの概況をまとめていた。市域が属した六小区と八小区について、物産の項目をみれば、前者には生糸、醤油、清酒、絞油、筵、炭薪、後者には米、麦、大豆、小豆、粟、稗、胡麻、菜種、糸、蛹、桑、茶が記載されている(資三―89)。これらは蛹を除いて、当然ながらすべて表1―2―5であげた品目と一致する。前者に米や野菜類が含まれていないのは奇異に感じるが、それぞれの地域の特徴は表わしているだろう。このなかでは醤油、清酒などの醸造品が六小区に集中しているのが目立つ。当時はこれらも農間余業として生産され、村の産業として成り立っていた。ただし、六小区に属する和田村では醸造品は生産されておらず、多摩市域では醸造業は盛んでなかったといえよう。