養蚕と製糸

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殖産興業政策の助けを受けながらも、基本的には在地の活力によって発展していった産業として、養蚕と製糸があげられる。そしてこれは多摩市域を代表する産業でもあった。この時期については信頼できる統計資料がないため、市域全体の数値を示すことはむずかしいが、連光寺村と寺方村については養蚕に従事する戸数がわかる。連光寺村の養蚕農家と蚕種紙生産高は表1―2―8に示した。連光寺村の養蚕農家は明治二年(一八六九)時点で三二軒を数えるが、全戸数が七六軒であるから(表1―1―8)、半分近い家で養蚕が営まれていたのである。寺方村についても同様なことがいえる。明治六年(一八七三)の調査によれば、寺方村では養蚕を行っている家は二一戸を数えるが(杉田卓三家文書)、やはり全戸数四四戸(表1―1―8)の約半分を占めている。これらから市域で養蚕が盛んだったことは明らかであろう。ただし、当時は養蚕を専業として行うことはなく、いずれも農間余業として行われていた。
表1―2―8 連光寺村の繭産出高
(明治2年)
生産者 産出高
勝之助 3枚
藤助 4 
弁蔵 2 
國平 3 
辰五郎 3 
久治郎 2 
増五郎 5 
庄八 3 
定太郎 17 
忠五郎 15 
傳右衛門 12 
駒吉 6 
平右衛門 5 
利左衛門 3 
文太郎 3 
治左衛門 9 
文左衛門 5 
太郎右衛門 3 
次兵衛 7 
曽右衛門 15 
庄左衛門 8 
庄右衛門 8 
市左衛門 8 
平右衛門 7 
吉右衛門 6 
文右衛門 3 
武左衛門 7 
新左衛門 6 
幾太郎 15 
八百蔵 3 
長左衛門 3 
五左衛門 8 
合計 207枚
「資料編三」No.20より作成。

 次に、製糸業についてみよう。小島資料館に残る生糸製造人鑑札願(資三―67)から判明する限りで、多摩市域の生糸製造人をあげれば、表1―2―9のようになる。むろん、これが市域すべてを網羅しているわけではないが、落合村の生糸製造人は三一人に及び、その多さは注目に値する。村で生産された生糸は、地方の生糸商人を通じて織物業者に売られたり、さらに横浜の売込商を通じて海外へ輸出された。市域のなかでは連光寺村の生糸商人の売り上げ高が判明するが(表1―2―10)、彼らのなかには七四〇両もの売り上げをあげている者もおり、農間余業の域を超えるほどであった。しかし、生糸の生産や売買が盛んになるにつれ、粗悪品の流通が問題化してきた。とくに、明治初年に流行した二ツ取座繰機(糸を巻き取る小枠が二つあるもの)が品質低下の原因であるとして、明治六年に禁止された。しかし、この通達は守られず、たびたび同様の通達が出された。明治七年(一八七四)七月には連光寺村のある生糸製造人が二ツ取座繰機を使用しているとして、いっそうの取締強化を命じられた(杉田卓三家文書)。こうした生糸の品質低下という現状を改良するために設けられたのが八王子駅生糸改会社であった。
表1―2―9 多摩市域の生糸製造人および生糸商人
村名 氏名
落合村 加藤久次郎、峰岸弥太郎、小泉政五郎、高村清左衛門、小林喜代次、横倉磯吉、加藤弥右衛門、横倉定吉、加藤秀次郎、小山重次郎、小泉留吉、井上友右衛門、小泉仁太郎、中田権次郎、高村六左衛門、川井五兵衛、金子亀五郎、田中繁太郎、加藤善右衛門、井上重五郎、須藤浅次郎、加藤又蔵、高村文平、古沢辰五郎、有山藤左衛門、小泉與吉、横倉甚五郎、寺沢三郎右衛門、横倉嶋五郎、高村権左衛門、横倉鉄之助
和田村 柚木久蔵、*真藤弥左衛門
連光寺村 *城所金三郎、*小形杢左衛門、*林傳右衛門、*相沢久蔵、*小嶋音松、*加藤丑五郎
貝取村 *浜田源助、*市川秀次、*市川太右衛門
乞田村 有山高治郎
一ノ宮村 佐伯清助、山口藤兵衛、中川健治郎、佐伯藤右衛門、佐伯曽吉、山田岩右衛門、佐伯伊之助、山田又三郎、永井佐兵衛、小暮□蔵、佐伯角兵衛、新田周作、佐伯力蔵
「資料編三」No.67、山田武夫家文書「生糸製造人御届」、小島政孝家文書「生糸御鑑札願」より作成。
注)*が生糸商人、それ以外が製造人。

表1―2―10 連光寺村の生糸商人売上高
氏名 売上高 備考
小嶋秀治郎 80両3分1朱ト銭52貫58文
相澤久蔵 740両2分2朱ト銭18貫73文
小形清左衛門 80両1朱ト銭1貫738文 休業
林傳右衛門 228両2分ト銭6貫894文
加藤丑五郎 130両1分ト銭6貫970文 休業
「資料編三」No.64より作成。
注)売上高は明治4年10月から5年9月までの1か年の数値。