八王子駅生糸改会社は明治六年二月に設立された。その規則(資三―66)は全一四条(同年五月に改正され全一五条)からなるが、まず前文で、近年生糸が粗製濫造された結果、品質が低下し貿易上の損害も少なくないことが指摘され、そうした状態を改善するために生糸改会社が設けられたことが明記されている。八王子駅生糸改会社の場合、役員は社長、副社長、世話役、目利人からなる。また他村の便宜のため、八王子駅以外に、原町田村、五日市村、上溝村の三か所に出張所が置かれ、それぞれ副社長、目利人、世話役が詰めていた。生糸の売買に関しては、輸出用と国内用を問わず、製造人が押印したうえ、生糸改会社へ提出し、審査を受けてから行うこととされた。この製造印は村々からの申請を受けて改会社が作成することになっていて、明治六年九月には、和田村・寺方村を含む九か村へ下げ渡された(杉田卓三家文書)。
図1―2―4 八王子駅生糸改会社規則
一方、生糸改会社の設立を受け、生糸製造人らもその対応について協議し方針を固めている。それによれば、改会社から受ける鑑札は大切に扱い、他人の鑑札を用いたりしないことや、粗製濫造を行う者がいたらお互いに注意し、品質の低下を防ぐことなどが確認されている(小島政孝家文書)。製造人らもおおむね政府の方針に従っていたといえるが、生糸を輸入する外国側は政府主導で設立された生糸改会社に批判的であった。すなわち、改会社による生糸取引の独占は、貿易の自由を妨げるというのである。政府は当初これに反論していたが、結局抗しきれずに徐々に統制を緩め、明治十年(一八七七)四月、生糸製造取締規則の廃止とともに改会社も閉鎖された。再び生糸の生産は在地の活力に委ねられ、明治十年代以降の発展へつながっていく。