地租改正は、近世以来の土地制度と租税制度を根本的に変革した、明治維新の過程で最大といってもよい大改革であった。明治政府は成立当初から財政基盤の弱さに悩み、それを解消するため、各藩で不統一だった税法を統一するとともに、租税徴収の仕組みも村請制から土地所有者個人に賦課する方式へと変え、地価に応じた金額を租税として納めさせた。この改革により政府は財政的基礎を確立し、その後の富国強兵政策の推進を可能にしたのである。では、この大変革は多摩市域でいかに進められたのだろうか。
政府は明治四年(一八七一)九月に地租改正の方針を決定すると、五年一月には東京府下に地券を発行し、さらに二月には田畑永代売買の禁を解いた。それにともない、売買もしくは譲渡された土地へ、その所有者を確定するため地券交付が開始された。神奈川県では同年五月、管下すべての土地に地券を交付することが布達された。これを受け、連光寺村では六月十五日から地券交付のための下調べが始まった(富沢政宏家文書)。この日から連日のように書役が富沢家へ詰め、地券発行の準備を進めた。こうして交付された地券は、当時の干支にちなんで壬申地券と呼ばれる。ただし、このときの調査は、新たに土地の測量などを行わずに、検地帳など旧来の帳簿に基づいて行われた。寺方村では明治二年から五年までの四か年の台帳を調べ、明治六年(一八七三)十月、「地租割附位訳取調書上」として神奈川県に報告しているが、当然のように石高・反別とも旧来の数値と変わりはない(杉田卓三家文書)。また、地租もいまだ石高で算出されていた。この時点では、地券という新しい方法を取り入れながらも、租税の賦課に関しては旧来通りの方法が踏襲されていたのである。
ところで、壬申地券発行のためにかかった費用は、連光寺村の場合、明治六年一月から四月までの四か月間で三〇円三二銭余であった(富沢政宏家文書)。これは同時期の支出総額六七円二六銭余の四五パーセントにも相当する額である。ただし、筆墨や紙などにかかる費用は地券調査と日常業務で分けられていないため、これを厳密に区別すれば、おそらく支出の半分ほどを地券発行に関する事務で占めることになろう。地券発行が村々に大きな負担となっていたことは明らかである。