まず最初に、字地の合併結果をみておこう。市域のなかでは、連光寺村と貝取村以外の六か村について把握できるが、そのうち乞田村以外の五か村で、明治八年の地租改正の過程で合併が行われたことが明記されている。関戸村を例にあげると、表1―2―12のように合併が行われている。もっとも大規模な合併は霞ヶ関で、一九の小名を統合している。全体では四九を超える小名を七つの字に統合したことになる。しかし、すべての村がこうした字地の統合を行ったわけではなく、和田村のように二一の字を改称しただけの村もあった。これらの差異がどのようにして生まれてきたのか、今のところ明らかではない。
新字 | 旧小名 |
霞ケ関 | 隠居屋敷、出口、木曽面、才木、駒屋敷、戸傳、長ノ入、谷中をね、城山下、宿平、金井神、うづの谷、すわの、上谷、下谷、池ノ上、兎谷、原峯、瀧平 |
古茂川 | 古茂川、埋田、ねぎ山、三本柳 |
入江 | 端巻、入江、五反田、大筏、埋田の一部、ねぎ山の一部 |
ゑご田 | 鳥井戸、中島、一町田、ゑご田 |
小河原 | 小河原、相撲場 |
大河原 | 向河原、前河原、大河原 |
原地 | 原地、むじなか入、おへや、銭神、鷹入ず、鷹すまい、丸山下、長はた、大谷、日影北、日影南、日影峯、山王山 等 |
また、字地合併の経緯についても、明確に記された史料はみあたらない。ただ、関戸村の飛び地である原地の統合前の状況について、「字調査控」(富沢政宏家文書)のなかで、境界が湾曲屈折しているうえ法則もなく各字が散在していると記されており、明治八年の統合はそれを解消するための方策だったことが推測できる。おそらく同様の問題を抱えていた村は多かったに違いない。それが土地測量と字限り絵図を作成する過程で明らかになり、字地の統合へと至ったと考えられる。こうした事例がほかの地域で普遍的にみられることかどうか、さらに検討は必要であるが、地租改正の過程のなかで字地の統合が行われたことは興味深い事実であろう。
図1―2―7 落合村絵図